館山市・洲崎の歴史・文化を学び「坂田の残土問題」を考える    ~東京湾の歴史⑧ | Blog 安房国再発見

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館山市・洲崎の歴史・文化を学び

     「館山市・坂田の残土問題」を考える

                   ~東京湾の歴史⑧


館山市・西岬地区にある戦争遺跡は

日本の近現代史にとって大変重要なものです。


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地域に“いま”ある文化遺産を

まちづくりに活用していきましょう。


高い評価を受けている

西岬地区の戦争遺跡群

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内房地区に進出した

第1特攻戦隊第18突撃隊


波左間や洲崎に

「震洋」特攻基地建設

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18突撃隊は、1945(昭和20)年6月下旬、

1人乗り「震洋」58隻を主力とする、

第59震洋隊の配備命令を出しました。

7月に入って、第59震洋隊には真鍋康夫中尉を部隊長とする、

志願した176名の若者達の配属が決定したのです。

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館山市波左間の特攻基地建設では、

同年3月下旬から300名余りの兵士たちが送り込まれ、

「震洋」の格納壕はじめ居住・燃料・兵器・食糧など

素掘りの地下壕が突貫工事で掘られました。

この特攻基地施設は航空機から発見しにくいように、

小さな漁村の民家にまぎれて配置されていたのです。

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波左間の海岸から約200m離れた山すそには、

「震洋」格納壕7本と燃料や食糧などの地下壕が掘られ

「震洋」を海岸まで移動させるための

コンクリート道路が敷かれました


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また、海岸にはコンクリート製の

滑り台(発進用スロープ)や、

係留施設などを建設しました。


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ここから西方約3kmの洲崎灯台に近い

栄の浦漁港でも「震洋」基地建設が

ほぼ完成しています。


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この「震洋」格納壕跡には、

特攻基地において大変珍しい刻字された

壁面があります。


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「新七分隊」とか、

「二十年七月二十日 祝完成」、

「阿部」という人名が確認できます。


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しかし、真鍋隊長らは、

7月14日に波左間基地に到着したものの、

主力特攻兵器の「震洋」は、まだ配置されていませんでした。
8月13日になって、やっと6隻が基地に到着し、

すぐに爆薬を装備し出撃態勢をとったなかで、

若き特攻隊員たちは敗戦をむかえたのです。


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「米軍引渡命令書」

~波左間・洲崎の「震洋」基地の地図
占領軍は特攻基地の調査をおこなった際に、

日本側に基地の概要や地図、残存兵器類などを
記載した書類の提出をもとめた。

13本の格納壕などが建設されていたことがわかる。


岩井袋の第1特攻戦隊

第18突撃隊(嵐部隊)本部基地

と「海竜」「蛟竜」「回天」基地跡

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米軍への引き渡し書類。特攻基地が

どこにあったかがわかります。

また、基地にある特攻兵器など

すべての備品が書き出してあります。


房総半島の鋸山の南側、安房郡鋸南町の岩井袋は、

小高い山に囲まれ、中世より鯨獲りなど沿岸漁業の盛んな港でした。

この港には今も、水上・水中特攻兵器などを格納した

素掘りの地下壕が残っています。

1945(昭和20)年下旬から約3,000名の兵士が動員され、

突貫工事で基地づくりが進められました。

狭い漁村の各民家には数名ずつが分宿し、

また朝鮮人労働者がいたという証言もあります。


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1986年6月24日に本部基地に関わる

記事がありました。(「海龍」が写っています)


同年6月、約1,700名で編成された第18突撃隊は

岩井袋を本部基地にして、

排水量19トン2名乗りの特殊潜航艇を改良した特攻艇「海竜」や、

排水量60トン5名乗りの特攻艇「蛟竜」の部隊を配置しました。


敗戦直後の「米軍引渡命令書」には、

この特攻基地の配置図が掲載されている。

基地施設は漁村の民家などを利用してカモフラージュし、

港から格納壕までは運搬のためにレールが敷かれていました。

墓地の地下を格納壕として人間魚雷「回天」を配備してあった

との記載は注目されます。


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「米軍引渡命令書」

~岩井袋第18突撃隊本部基地の地図