鳥山確斎(とりやまかくさい) | Blog 安房国再発見

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blog 安房国再発見 ●鳥山先生誕生地の碑


南房総市立七浦小学校の校庭に建っています。

郷土の偉人、鳥山先生って誰?

【kotobank】デジタル版 日本人名大辞典+Plus

によると、


鳥山新三 とりやま‐しんざぶろう

1819‐1856  幕末の儒者。
文政2年2月2日生まれ。江戸で東条一堂に儒学を、加藤環亀に兵学をまなぶ。京橋に塾をひらき吉田松陰らとまじわる。松陰が海外渡航に失敗し獄につながれた際、奉行所の尋問をうけ、一時謹慎となる。安政3年7月29日死去。38歳。安房(千葉県)出身。名は正清。字(あざな)は義所。号は確斎、蒼竜軒。





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千倉町郷土史研究会による碑の説明看板には

次のように記されています。(平成20年1月)


 先生は、郷土七浦の生んだ偉人です。blog 安房国再発見 名前は新三郎、あざなを正清と言いました。姓は鳥山(とりやま)、名は確斎(かくさい)と言いました。文政2(1819)年に安房郡(現在の南房総市)千倉町大川の宇山孫兵衛の子として生まれました。


 若いうちから文武の道をきわめ、20歳の時には江戸に出てさらに勉強に励みました。31歳の時、「蒼龍軒」という塾を開きました。そのころは、外国の船がしばしな日本の沿岸に来て、国内は騒がしくなりました。先生は、吉田松陰など国の将来を心配する武士達と行き来して新しい世の中をつくろうと努力をしていました。

 また、病気に負けずオランダ語辞典「和蘭文典筌」を書き終えました。しかし、間もなく病状が悪化し、安政3(1856)年に38歳の若さでおしくも亡くなりました。墓は東京本郷駒込の吉祥寺にあります。明治45(1912)年、功績が認められ特別に従五位を贈られました。




 ※もっと詳しくは、

  南房総いいとこどり~南房総資源辞典

  「鳥山確斎と志士たち」  をご参照ください。