お仕事月間突入です(*´Д`)=з
中旬あたりに長浜温泉1泊2日の添乗業務が
控えています。
さて。。
前回西国1番をUPしたので
今日は2番・・・
紀三井山 護国院(通称紀三井寺)
結構歩きました。平坦な舗装された道路や急な階段・・。
勾配はきついですがまだ整備されている階段だったので
お客様とゆっくり休みながら登りました。
今回は画像付き^^
唐から渡来した為光(いこう)上人は行脚の途中、たまたまこの地に泊まったが、その夜中に名草山山頂付近から発する霊光を見たので、次の日、山に登り、そこで金色に輝く千手観音像を感得したという。為光上人は「この地こそは観音慈悲の霊場である」とし、自ら十一面観世音菩薩を一刀三礼で刻み、これを祀る堂宇を光仁天皇の宝亀元年(770年)に建立したという。これが紀三井寺の創始と伝えらる。
その後、歴代天皇の行幸があったので、後白河法皇はこの寺を勅願所と定めた、といわれている。
正しくは『紀三井山護国院金剛宝寺』というが、通称名の『紀三井寺』の呼び名の方が一般的であり、護国院金剛宝寺の名称を用いる人は殆どいない。
「楼門」から先は石段になっているが、昔はここが坂であり、結縁坂といわれていた。
「楼門」の傍にこの坂にまつわる事が書かれた説明板には・・
『紀の国屋文左衛門は親孝行であった。ある日母を背負って紀三井寺に参詣、この坂を上ったが途中で草履の鼻緒が切れた。そこに玉津島神社の宮司の娘が通りかかり、鼻緒をすげ替えたのが縁となり、二人は結ばれたという。』これが、この坂を「結縁坂」と呼ぶようになった由来といわれている。この話には玉津島神社の宮司の出資金によるミカン船で紀の国屋文左衛門は大儲けしたというオマケまで。
楼門から本堂前の広場までは、約230段のかなり急勾配の石段を登らなければならない。石段を上まで上がった人の多くは息を切らす。
かなり急勾配な階段↓
昔、終戦直後の昭和21年(1946年)頃、駐留米軍の兵士がジープを運転し、この石段を登った、ということが話題になったらしい。急勾配なのでどう考えても無理・・・。
紀三井寺の名称は「紀州にある三つの井戸のある寺」に由来しているという。三つの井戸を「三井水」と呼んでいる。
その内の一つ清浄水が石段の途中にあり、石垣の間から水がチョロチョロと流れ落ちている。
「清浄水」から数十メートル南側に「三井水」の一つである「楊柳水」、北側のかなり離れた場所に、もう一つの「三井水」である「吉祥水」がある。
「三井水」は昭和60年に日本名水百選の一つに選ばれている。「清浄水」という名は「一切衆生の罪垢を洗除して清浄なるを得しむ為」に由来しているということなので、衛生的に清浄という意味ではないらしい。
石段の途中に霊木・・クスノキ科のダブノキ(イヌグス)があり
応同樹と呼ばれる。↓
開祖為光上人が持ってきたという七種の宝の内の1つと伝えられている。創建時の応同樹から種が落ち芽が出て成長したのが現在の応同樹・・・?由来にまつわる木として保護されている。
和歌山市指定文化財。
石段を登ると六角堂がある。
六角堂の右側 手紙(はがき)を模した文塚↓
碑文には、受取人と差出人が不明な迷子郵便物が焼却された灰を全国から集め、その霊を慰めると同時に迷子郵便物がなくなるよう祈願するための供養塔として建立されたという。
こころの灯台・新仏殿↓
2002年~2003年頃「現在の荒廃した社会から生かされていることに感謝するという本来の考え方をとりもどすため【こころの灯台】となるべくこの法塔、新仏殿を建立した」とされている。
灯台を模した建物。上層部は料金が必要な展望台。
鐘楼↑771年に建立1588年に再建され1937年に修復。桃山建築の特徴。
重要文化財に指定。
この北側大師堂があり本堂に向かって左側の広場から山部赤人が「わかの浦潮みちくれば潟おなみあしべをさして鶴なきわたる」と歌った和歌浦湾を望む。
1759年に建立。総欅造り(そうけやきづくり)建築技法にも優れた建物。和歌山県指定文化財。
厨子内に安置されている本尊の「十一面観世音菩薩像」は為光上人が刻んだものといわれており、上人が感得した「千手観音像」はその胎内に納められているというが、どちらも秘仏であり直接拝観できない。
「千手観音像」は平安時代後期の作?
本尊の「十一面観世音菩薩像」、「千手観音像」、それに本堂に安置されている、「梵天・帝釈天立像」は何れも重要文化財に指定されている。
心身に痛み、悩みのある人は、自分の部位とびんずるさんの同じ部位を交互になでてお祈りすれば、痛み悩みが治癒するという。このような「なで仏」は紀三井寺に限らず、多くの寺院で見ることができる。ただ、「なで仏」の表情は寺によってかなり違うようで、この「なで仏」はギョロリと眼をむき人を睨みつけている。
多宝塔↓ 紀三井寺に現存する最古の建物。「本堂」の右側にある。賓頭廬尊者、通称「びんずるさん」が安置
↑和歌山地方気象台季節観測用のソメイヨシノ標本木。
桜の開花宣言の基準となる木。
開山堂↓
室町中期の建築様式
多宝塔の南側、「三社権現」との間に見落としてしまいそうな小さな祠。
約四百年の昔、織田信長、羽柴秀吉の軍勢が粉河寺などを焼き討ちし、紀三井寺に迫ってきた。その頃、当山観音堂に仕えていた春子という名の娘が須弥壇から白狐の姿になって出現し、霊力をもって軍勢の先鋒の将、羽柴秀長から焼き討ち禁制の書状をとり、紀三井寺と周辺を戦火から救ったという伝承があるという。 以来、人々は厄除けとして春子稲荷を祀ったとされている。
御詠歌
ふるさとをはるばるここに紀三井寺花の都も近くなるらん