最近「いいものを書けた」といった達成感でブログを書き終えることができない。自分がどうしようもない半端者におちてしまった感覚が残る。


私はとても好きな人ととても嫌い(だけれどコミュニティの都合上関わりを完璧に断つことができない)な人のSNSを覗き見るくせがある。

後者はマイナスでしかないため更新に気づいた時プロフィールを覗きに行く程度だが、前者への執着度合いは己を顧みても中々のものだと思う。

それに振り回されるのが分かっているからブロックしているはずなのに、気がつくと定期的にチェックしてしまう。本当に拗らせている。

いつの日からか、私の嫌いなあの子のつぶやきのいいね数が減った。

遡ってみても具体的な日にちは掴めない。数値はマチマチだ。しかし減っているのは確実であり、あの子のユーモアが崩落しつつあるのか、あの子の人望が失われつつあるのか、どちらにしても嬉しさを感じずにいられない。

私の好きな人が、あの嫌いな女の子と仲の良い時期があった。SNSで彼らの交流を見かけた時、頭を鈍器で殴られたような、めまいがするような感覚を覚えた。「お終いだ」と思った。私と私が好きなあの人の仲はこんなにも拗れてしまっているのに、嫌いなあの子が仲良しになってしまった。家に帰るのも辛くて、帰路の途中ベンチに座り込み、ある人に連絡をした。かつての、元恋人だ。私は彼から優しさと恋心を搾取するだけして、捨てた。報われなかった恋は忘れて、彼と幸せになろうと思った。今持っているモヤモヤに再度火をともしても、それが待ちわびているあの人に掬われる事なんてなくて、だったら過去のしがらみと苦しみなんて捨ててこの人と幸せになろうと思ったのだ。でも無理だった。ブルーのライトに照らされ、音の響と振動に包まれながら笑う彼を見たら、とてもじゃないけど諦められないと思った。好きなのかすらわからなかった。わからなかったのに、私は彼に別れを告げて、関係を解消した。彼はその前も後も私に怒りの表情を見せることは無かった。ただ、事実を冷静に受け止め、本当にいいんだね、俺の方が多分幸せにできるけど、というようなことを言い残して、帰っていった。彼の涙を見ることは数える程しかなかったけど、あんなふうにしゃくりをあげて泣く彼を、私は今後もう二度と見ることは無いと思うし、忘れられることもないと思う。彼は、今何をしているのだろう。彼にも好きな日にも言えないけれど、私は今でも人生が上手くいかない時、彼のことを思い出す。あの時あのまま彼と付き合い続けていれば、今の苦しみは存在していなかったのだろうか、なんて。彼のことを救済としてしか見ていない私は恋心なんて最初から語るべきではないのかもしれない。誰にも謝罪の言葉を述べられない。あまりに傷つけ、巻き込みすぎた。

嫌いなあの子の話をしてやろうと思ったのに、結局またこの話題になってしまった。深く考え事をすると毎回好きな彼と好きだった彼のことに行き着いてしまう。


今回のタイトル「削りとる生」についてなんだけど、貪欲に他人の善を削りとって消費するような生き方は辞めましょう、って言いたかった。

これは他責と自戒の意を込めて、私とよく似たあの子に言いたい。そんな生き方辞めろ、どんどん周りから人が居なくなるぞ、って。けど、どうだっていい。

私の好きな人は今私のことが好きで、私も彼が好きで、私はあの子が嫌いだから。あの子がどうなろうが知ったこっちゃない、そう臭いものに蓋するように目を背ける刹那、私が深く傷つけてしまった彼の姿を見たような気がした。