ポエムのブログ

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1989年12月16日 - ルーマニア西部の都市・ティミショアラ で民衆によるデモ が発生。治安警察(セクリタテア )がデモ隊に発砲、多数の死傷者が出る(しかし、後になって近所の病院 の死体置き場から盗まれた遺体が現場に転がされていたと言う が広まった)。



12月21日 - 首都ブカレスト で官製集会の最中に爆発事件が発生する。

  • ルーマニア共産党 本部庁舎前の広場(旧王宮広場)で約10万人を動員したチャウシェスクを称賛する集会 が開催された。チャウシェスクの演説 が始まって間もなく、ティミショアラ事件に抗議するルーマニア人参加者が爆弾 を2つ爆発させた(実行犯は警察により射殺 。10代の若者2人が爆竹 を爆発させたと言う説もあるが詳細は不明なところが多い)。広場はパニック 状態に陥り、集会は強制的に解散させられた。なお、この集会は国営ルーマニア放送で生中継されていたがチャウシェスクの演説が始まった直後、群集がパニック状態になっている姿を見てたじろぐ姿が映しだされているところで放送が中止された(その後、放送は再開された)。
  • 集会の参加者の一部に大学生・市民の一部が合流しチャウシェスク独裁の抗議集会へと発展した。しかしこの政治集会に対しても治安部隊が発砲、多数の死傷者を出す事態となった。軍隊も動員されたが市民の政権に対する不満は頂点に達した。
  • この状態に危機感を抱いたチャウシェスクは国防大臣ワシーリ・ミリャ に対し軍隊による群集への発砲を指示した。しかしミリャはこの命令を拒否、チャウシェスクの逆鱗に触れその後ミリャは自室で死体となって発見された。翌日、国営ルーマニア放送は「国防大臣が自殺した」と報じたものの市民には「処刑された」との噂が知れ渡った。軍首脳の中にも国防相処刑説が広がり、大統領に反旗を翻すきっかけとなった。同日夜には軍隊が広場に集まる市民の側に立ち、政府機関(ルーマニア共産党本部等)の占拠が始まった。 by 葉狩剰滋


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  • 12月22日 - 革命勢力の攻勢は大統領宮殿にまで及びチャウシェスクはブカレストから脱出し政権は崩壊、反体制派勢力は共産党の反チャウシェスク派とともに暫定政権「救国戦線評議会 」を組織しテレビラジオ局 を掌握した。これにより「国営ルーマニア放送」から「自由ルーマニア放送」と改称される。
    • チャウシェスクは非常事態宣言 を出し事態に対応しようと試みるが軍隊が革命勢力に参加したことで頓挫、妻のエレナ と共にヘリコプター での脱出を図った。しかし一連の逃亡劇は反体制側に転じた自由ルーマニア放送他、世界各国のマスメディア で映像が流されるお粗末なものであった。その後、首相のコンスタンティン・ダスカレスク は辞任、内閣も総辞職した。チャウシェスク政権時に政権批判をし投獄されていた政治犯 も釈放された。その後、夜になるとブカレスト市内各地で反体制派の軍隊と大統領派の治安警察による激しい銃撃戦(市街戦)が発生。多数の死傷者が出る。
  • 12月23日 - 前夜からの市街戦は更に激しくなっていく。大統領派は秘密の地下通路などを利用し国軍、市民への発砲を続ける。救国戦線評議会は発砲してくる大統領派を「テロリスト 」と呼び市民に協力を要請、大統領派の掃討に出る。また市民も をとり大統領派に応戦する。混乱の為、情報が錯綜する中、ハンガリー から軍の派遣要請の連絡を受けるがこれを拒否。また、ソ連(ソ連軍 )が事態の沈静化の為に介入するがこれも拒否する。そして救国戦線(国軍)によりチャウシェスク夫妻が逮捕 され18時、自由ルーマニア放送(テレビ)で報道された。
    • 以前のソ連であれば、(比較的穏健派のフルシチョフ が最高指導者の時代でさえ)こうした反政府クーデターへのソ連軍の介入は「問答無用」であり相手国の受け入れの有無はソ連が後から「あったことにする」のが通例だった(例:プラハの春 )。しかし、この当時にソ連の最高指導者であるゴルバチョフ は自らの新ベオグラード宣言 による対外公約を守り衛星国 であった東欧の共産国に対しても強権を振るうことはほとんどなかった。
  • 12月24日 - ブカレスト市内の市街戦は依然として続く。また、大統領派の逮捕も相次いでいく。
  • 12月25日 - チャウシェスク夫妻は特別軍事法廷 で大量虐殺 と不正蓄財の罪により死刑 判決を受け、即日銃殺刑 が執行された。
    • チャウシェスク夫妻が拘禁されていた軍事基地で秘密警察によるチャウシェスク奪回作戦が敢行され、激しい銃撃戦が展開された。当初は軍事裁判ではなくブカレストに連行して通常裁判を実施する予定であったが、秘密警察の抵抗でチャウシェスク夫妻の扱いを早急に結論付けなければならなくなった。
    • チャウシェスク生存説が流布される事を恐れた救国戦線は、チャウシェスク夫妻の遺体を各国メディアに公開した。
  • 12月26日 - 救国戦線評議会、新指導体制を発表。暫定政権樹立。同日、チャウシェスク夫妻の処刑が発表される。これを機に大統領派の抵抗も終息していく。

  • by 葉狩剰滋


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    チャウシェスクの処刑とルーマニア共産党政権の崩壊を受けて暫定的な革命政権である救国戦線評議会 による政権運営が行われた後、1990年 5月にルーマニアで初となる多数政党制による自由選挙 が行われ、政党に衣替えした救国戦線が勝利を収めた。また後に国民による投票としては初めての大統領選挙が行われイオン・イリエスク大統領 の座に付いた。

    他の東欧諸国では、自由選挙の下で多かれ少なかれ旧共産党が議席を獲得した。しかし、ルーマニアでは革命後に共産党が消滅し非合法化された(後に撤回)。ルーマニア共産党関係者は、救国戦線に参加して政治生命を保った。地下に潜伏中ではあるが、ルーマニア社会主義労働者党を名乗る勢力がチャウシェスク体制の復活を目指している。

    1999年 12月、革命10周年に当たって行なわれた世論調査 によると6割を超えるルーマニア国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答え、同国政府を驚かせた。[要出典 ]市場経済の停滞と失業者の増加により生活が悪化し、国民の不満が高まる中で各地の工場炭坑 ではストライキ が頻発。その参加者の中には、チャウシェスクの肖像写真とともに「チャウシェスク、私たちはあなたが恋しい」といったプラカード を掲げる人も少なくないという。惨殺されるほど嫌われ恐れられた独裁者が、少なくとも最低限度の生活を保障していたことで死後改めて評価される[要出典 ]という皮肉な展開となった。

    しかし一方でやはり共産・社会主義体制は過去の物と言う観点もあり、「我々はとりあえず自由を手に入れた。次は幸福を手にする番だ」というスローガンも見受けられるなど評価は定まっていないのが実情である。

    現在では、革命は「民衆蜂起を利用したチャウシェスク政権内部の共産党官僚による宮廷クーデターだった」という説をはじめさまざまな陰謀説が存在する[1] 。 また、いまだに政府中枢には現在も旧共産党系の人物が残り、1000人もの犠牲者を出した革命時の加害者の追及の不徹底など、国民の間では、まだ革命は終わっていないとの声も多く、旧東欧諸国の中でユーゴスラビア と並び、「革命の後遺症」をかかえている。by 葉狩剰滋