36歳になった夜
36歳になった。
35歳という年齢は自分にとってとても大きな意味を持つと思っていた。『35歳のリアル』などという本を買ってみたりもした。そこには、それこそリアルなことが書いてあったが、パラパラとめくって放り投げた。「35歳転職限界説」という言葉も知った。思わず笑ってしまった。35歳以上の転職は厳しいものになるらしい。ああ、そうか。なるほどね。日々は流れていくが、錆びつくのをただ待っているわけではない。
36歳。それなりの年齢だ。何か結果を出していなくてはならない年齢だろう。
たとえばドストエフスキーは36歳の時、何をしていたのか?ピカソは?手塚治虫は?ヘンリー・ミラーは?アンディ・ウォーホルは?真崎守は?ボブ・ディランは?
ぼくは何をやっているのだろう。そう考え始めると憂鬱にもなってくるが、いろいろとやってきたじゃないか、ともう一人のぼくが言う。
自分を好きになること。なりたい自分に、今、なること。それ以外に人生の意味なんてない。
ぼくが敬愛する作家の山川健一のブログに次のような文章を見つけた。
「十代の頃の決意が本気だったんだということを証明するために、のこりの人生があるんだと思うよ。」
まったくそのとおりだ、と思った。十代の頃、わずかだが確かなものに出会い、その確かなものを信じ、一つの決意をした。それは端的に言ってしまえば、かっこよく生きたい、ということではなかったか。
かっこよく生きる。馬鹿みたいだが、別に誰にどう思われてもいい。かっこいい36歳になってやる。
ふと書棚から手にとった本。秋山駿の『舖石の思想』(講談社文芸文庫)をめくると、こんな記述に出会った。
「このノートを決して手放すな。白い紙を前に、ただ緊張して待っているその時間を失ってから、お前の堕落はひどいものだった。」
ぼくは堕落していた。生温い現実に心を奪われ過ぎていた。日々の仕事に追われ、自分の本当にやるべきことを見失っていた。
真っ白い紙、それは未来だ。緊張し、煩悶し、鬱屈し、歓喜し、陶酔し、これからの自分を描いていきたい。
ぼくという人間は、きっともっとすごいはず。と言い聞かせて、がんばります。
35歳という年齢は自分にとってとても大きな意味を持つと思っていた。『35歳のリアル』などという本を買ってみたりもした。そこには、それこそリアルなことが書いてあったが、パラパラとめくって放り投げた。「35歳転職限界説」という言葉も知った。思わず笑ってしまった。35歳以上の転職は厳しいものになるらしい。ああ、そうか。なるほどね。日々は流れていくが、錆びつくのをただ待っているわけではない。
36歳。それなりの年齢だ。何か結果を出していなくてはならない年齢だろう。
たとえばドストエフスキーは36歳の時、何をしていたのか?ピカソは?手塚治虫は?ヘンリー・ミラーは?アンディ・ウォーホルは?真崎守は?ボブ・ディランは?
ぼくは何をやっているのだろう。そう考え始めると憂鬱にもなってくるが、いろいろとやってきたじゃないか、ともう一人のぼくが言う。
自分を好きになること。なりたい自分に、今、なること。それ以外に人生の意味なんてない。
ぼくが敬愛する作家の山川健一のブログに次のような文章を見つけた。
「十代の頃の決意が本気だったんだということを証明するために、のこりの人生があるんだと思うよ。」
まったくそのとおりだ、と思った。十代の頃、わずかだが確かなものに出会い、その確かなものを信じ、一つの決意をした。それは端的に言ってしまえば、かっこよく生きたい、ということではなかったか。
かっこよく生きる。馬鹿みたいだが、別に誰にどう思われてもいい。かっこいい36歳になってやる。
ふと書棚から手にとった本。秋山駿の『舖石の思想』(講談社文芸文庫)をめくると、こんな記述に出会った。
「このノートを決して手放すな。白い紙を前に、ただ緊張して待っているその時間を失ってから、お前の堕落はひどいものだった。」
ぼくは堕落していた。生温い現実に心を奪われ過ぎていた。日々の仕事に追われ、自分の本当にやるべきことを見失っていた。
真っ白い紙、それは未来だ。緊張し、煩悶し、鬱屈し、歓喜し、陶酔し、これからの自分を描いていきたい。
ぼくという人間は、きっともっとすごいはず。と言い聞かせて、がんばります。