パブロ・ピカソとヘンリー・ミラーに感動する
東京・六本木の国立新美術館とサントリー美術館でパブロ・ピカソの展覧会が開催中である。恐らくその関係で、いくつかの雑誌でピカソの特集が組まれていたので、買ってみた。そういえば先日の「たけしの誰でもピカソ」というテレビ番組でもピカソが特集されていた。今はある種のピカソブームということなのかもしれない。
ぼくはもちろんピカソが大好きなのだが、あまりにもその存在が巨大過ぎて、普段顧みることは少ない。これは手塚治虫やビートルズなどにも言えることだが、その偉大さが当たり前のように感じられ逆になんとも思わなくなってしまうような状態である。たまに改めてその存在に触れて、その巨大さを痛感する次第である。
とにかく、ピカソはやはりすごい。91年の人生の中で、画家として様々に作風を変え続けたわけだが、どれをとっても面白く、圧倒的なエネルギーを感じる。一時キュビズムに傾倒し、抽象表現に限りなく接近していくが、そこから一気に新古典主義といわれる古風な写実に戻っていくあたりはとてもスリリングだ。現実というものにこだわり続けた点、そして、風景はほとんど描かず、人物、特に女性を描き続けた、という点もぼくは好きなのだ。
ところで、ぼくはヘンリー・ミラーという小説家も好きなのだが、ぼくにとってミラーとピカソは何故か似た印象がある。まず老年期の顔が似ている。顔というより髪型、というか禿げた頭の形だ。また生涯、数々の女性と浮き名を流したという所も似ている。ピカソの創作遍歴の影にはその時々に付き合っていた女性の影響があるといわれているし、ミラーは確か5回ぐらい結婚と離婚を繰り返しているはずだ。そしてなんといっても似ているのは、作品量の多さである。二人とも膨大な量の作品を世に残している。ミラーは饒舌過ぎるほどその作品にありとあらゆる言葉を詰め込んでいる、という印象がある。書簡集もいくつか出ているが、手紙ひとつとっても、果てしなく情熱的に言葉を畳みかけている。ピカソもまた、8万点を超えるといわれる作品量を残しているわけだが、エネルギーが溢れ出て止まらないという状態だったのだろう。逆にいえば、エネルギーというものは一度出してしまえば止まらない。あるいは止めてはいけない。止めることができない。そういうものなのかもしれない。
恐らく二人にとって、習作という概念は無かったに違いない。メモ程度のものでさえも全力投球で作品化していったのだろう。ピカソは晩年近く、凄まじい量の銅版画の作品を作っているが、これはあきらかに日記のようなものだった。表現することが生きることと同義である、という人生だ。その止めどないエネルギーの奔流にぼくは感動してしまう。そして見習わなければな、と思うのだ。
ピカソについていろいろ読むと同時に、ミラーの本もつい読み返したりしているこの頃だ。ミラーは画家でもあり、多くの水彩画や版画を残してもいる。描きたいものを誰にも邪魔をさせずに描きたいように描いたという、その典型のような絵で、ぼくは好きだ。ぼくは本当に、ピカソとミラー、この二人が大好きだ。
東京の展覧会もなんとか観に行きたいと思っている。
ぼくはもちろんピカソが大好きなのだが、あまりにもその存在が巨大過ぎて、普段顧みることは少ない。これは手塚治虫やビートルズなどにも言えることだが、その偉大さが当たり前のように感じられ逆になんとも思わなくなってしまうような状態である。たまに改めてその存在に触れて、その巨大さを痛感する次第である。
とにかく、ピカソはやはりすごい。91年の人生の中で、画家として様々に作風を変え続けたわけだが、どれをとっても面白く、圧倒的なエネルギーを感じる。一時キュビズムに傾倒し、抽象表現に限りなく接近していくが、そこから一気に新古典主義といわれる古風な写実に戻っていくあたりはとてもスリリングだ。現実というものにこだわり続けた点、そして、風景はほとんど描かず、人物、特に女性を描き続けた、という点もぼくは好きなのだ。
ところで、ぼくはヘンリー・ミラーという小説家も好きなのだが、ぼくにとってミラーとピカソは何故か似た印象がある。まず老年期の顔が似ている。顔というより髪型、というか禿げた頭の形だ。また生涯、数々の女性と浮き名を流したという所も似ている。ピカソの創作遍歴の影にはその時々に付き合っていた女性の影響があるといわれているし、ミラーは確か5回ぐらい結婚と離婚を繰り返しているはずだ。そしてなんといっても似ているのは、作品量の多さである。二人とも膨大な量の作品を世に残している。ミラーは饒舌過ぎるほどその作品にありとあらゆる言葉を詰め込んでいる、という印象がある。書簡集もいくつか出ているが、手紙ひとつとっても、果てしなく情熱的に言葉を畳みかけている。ピカソもまた、8万点を超えるといわれる作品量を残しているわけだが、エネルギーが溢れ出て止まらないという状態だったのだろう。逆にいえば、エネルギーというものは一度出してしまえば止まらない。あるいは止めてはいけない。止めることができない。そういうものなのかもしれない。
恐らく二人にとって、習作という概念は無かったに違いない。メモ程度のものでさえも全力投球で作品化していったのだろう。ピカソは晩年近く、凄まじい量の銅版画の作品を作っているが、これはあきらかに日記のようなものだった。表現することが生きることと同義である、という人生だ。その止めどないエネルギーの奔流にぼくは感動してしまう。そして見習わなければな、と思うのだ。
ピカソについていろいろ読むと同時に、ミラーの本もつい読み返したりしているこの頃だ。ミラーは画家でもあり、多くの水彩画や版画を残してもいる。描きたいものを誰にも邪魔をさせずに描きたいように描いたという、その典型のような絵で、ぼくは好きだ。ぼくは本当に、ピカソとミラー、この二人が大好きだ。
東京の展覧会もなんとか観に行きたいと思っている。