ナポレオンフィッシュと泳ぐ日 | 人生をアートで埋める

ナポレオンフィッシュと泳ぐ日

佐野元春が1989年に発表したアルバム『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』が特別限定編集版として再発売された。未発表のアウトテイクやアルバム未収録の音源をまとめたCDと、同年のライブツアーから8月の横浜スタジアムでのライブ(未発表)を収録したDVDが特典として付加されている。このアルバムは、エルヴィス・コステロのプロデューサーとしても知られるコリン・フェアリーをプロデューサーに迎え、コステロのバックバンドのメンバーやブリンズレー・シュワーツといったミュージシャンが参加、大半の曲がロンドンでレコーディングされた。シンプルなコード進行、シンプルなメロディー、日本語にこだわった歌詞、シャウトするヴォーカル、ソリッドな演奏。その結果、とても痛快なロックンロールアルバムに仕上がった。1989年という年は、中国・北京での天安門事件や、ベルリンの壁崩壊など世界的にも激動の一年であった。もちろん日本では昭和から平成に変わった年でもあり、バブル経済の絶頂期でもあった。そうした時代背景の中で作られたこのアルバムは政治的な色彩も感じられるが、佐野元春のキャリアの中でももっとも攻撃的でラディカルな印象を受ける。尖ったアルバム、と言ってもいい。とてもバブルの頃に出たアルバムとは思えない。むしろそうした浮かれたムードを蹴散らすような挑発的で硬派な言葉と歌、演奏だ。
今回、ロンドンでレコーディングする前に、佐野元春の当時のバックバンドであるザ・ハートランドと行われたレコーディングセッションから、お蔵入りになっていた楽曲が数曲披露された。アルバムに収録されたバージョンのいわば試作品である。特に歌詞が変わっているものについては佐野元春の歌詞の推敲の経緯が伺われて興味深い。そしてこの特典音源の中でももっとも重要なのは「枚挙に暇がない」という曲。埋もれていたアウトテイクであり、今回初披露の軽快なスカナンバーだ。かなり面白い。それにしても「枚挙に暇がない」という言葉のチョイスはすごい。他にも「俺は最低」「愛することってむずかしい」といった曲もあり、この頃の佐野元春がいかに新しい語彙を持って日本語のロック表現に立ち向かおうとしていたか、あるいは「ガラスのジェネレーション」「サムデイ」などから彷彿される自身のパブリックイメージをいかに払拭しようとしていたかがわかる。
DVDのライブでは、よりロックンロール色を強めたステージを展開している。歌っているというよりは、なかばやけくそ気味に吼えている、という感じだ。ここでもかなり攻撃的な印象。躍動感に満ち、より高い次元を目指す孤高のロックンローラーといったところだろうか。エネルギッシュでパワフルだ。佐野元春はこのあと1990年には更にやけくそ気味でヘヴィなアルバム『タイムアウト!』を発表し、やがて『スウィート16』『ザ・サークル』という二枚の傑作アルバムを生み出すことになる。この流れは、まさに一人のミュージシャンの進化、あるいは深化の軌跡であると思う。
ぼくがこの『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』を初めて聴いたのは大学一年生の頃だった。15年前である。破壊的なボルテージの高さに圧倒された。特にタイトルナンバーは最初から最後まで、すべての音がぼくにとっては完璧な曲。歩いていると空まで歩いていけそうに軽快なドラミング。現代詩的な抽象表現を凝縮させた歌詞。ファンファーレのように高らかに奏でられるホーンの響き。何かの始まりと、同時に終わりを象徴する曲。佐野元春が一番知的でラディカルで諧謔性が強かった時期。大好きな曲だ。ナポレオンフィッシュという言葉がまずかっこいい。アルバムに収録されている曲の歌詞のどこにも「ナポレオンフィッシュ」という言葉は出てこない。当時のインタビューで佐野元春は、ナポレオンフィッシュという魚は実は見たことがない、できれば一生見たくない、と発言していた。でも、このアルバムのタイトルはナポレオンフィッシュでなくてはいけないとある日確信したのだ、と。そういった佐野元春流のレトリックにぼくはいちいち感動したものだ。ちなみにぼくもナポレオンフィッシュという魚をまだ見たことがない。ただこのアルバムから与えられたイメージは果てしなく大きい。
ところで、このアルバムを発表したとき、佐野元春は33歳だった。つまり今のぼくと同じ年齢だ。ライブ映像を見ながら不思議な気分だった。同い年の佐野元春がそこにいる。どこまでもタフで熱いが、鋭利な視線はきわめてクールだ。革新的でいいよ、ぶっ壊していいよ、命は短い、陽気にいこうぜ、と言われている気がした。1989年よりさらに激動の時代を生きる今、「俺はくたばりはしない」と歌うこのアルバムは有効だ。