前回は…、
確か、元カレのことを書いたよね。

それは信頼できるリア友に色々聞いて
前ほど、その元カレの影響力はなくなってきてるって言われて
モヤモヤしてたものが、ある程度解消されながらも
ネット上に載せた写メは出来るだけ消して
少しずつだけど、自分も落ち着いていってた。

そう思ってた。
だけど、いつもどこかに穴が空いたような
エネルギーの欠けた毎日である事は、うつ病のせいなんだと思ってやり過ごしてた。

LINEの返信も億劫、
Twitterで返信を免れる為の、言い訳めいた書き込みを数日に一度。


きっと、いつからかかかっていたうつ病が
私の脳の電気信号を
本来でない方向に変えているせい、
そう自分でも決めつけてた。


相変わらず、別経由の身体的疾患で退院後、
予後の仕事も日課の運動もまだ制限があったのが運命的だったのかもしれない。


暇な時間はネットサーフィン、好きなショップサイト巡り…
ずっと読んでなかった漫画も、誰ともなく面白いという話題を目にしては、久しぶりに電子書籍で読み始めた。


たったさっきの出来事だ。

全般性健忘という聞き慣れないワードの補足に、強いストレスから来る記憶喪失ーという言葉を目にした時、私の全神経がそこに集中した。

でも少し違う、私は自分が誰か忘れたわけじゃない、
私のこれは…

調べていくうちに出てきた
「限局性健忘」
その症状を読み終えた時、
心が底の方から満たされていく感じがして、
なんだか自分が完全になった気がした。

何年ぶりだろうか、声まであげて泣いた。
なんで泣くのかわからないって、こういう事なんだと思った。


私には、小学校2年生から、中学校を卒業するまでの記憶があまり無い。
全ての自由を奪われ、全く知らない世界に放り込まれたと言っていいと思う。
一時の抵抗も一瞬で奪われ、時には泣き方を忘れ、短い動画のような記憶が飛び飛びにあり、

これは今でも奇跡なのか底意地なのか

「高校に行かせるお金なんてない」
そう言われた時、何かが弾け飛んだ気がした。

世間知らずでうつ病、不眠症の中学生にも、
高校に行かないという事がどんなに自分の選択肢を狭めるかはわかった。

だから、「自分のお金で行く高校」は、自分が少しでも笑えるようにしようと思った。

これも幸いだったのだろう。
無理に、世間体を保つためだけに通わされていた中学校では、そのほとんどがぼんやりとだけど、冷たく古いコンクリートの壁と、誰とも関わりたくないと無意識に避けてきた人間関係があったことを覚えてる。
たまに思い出せるのは、重い制服、長いスカート、着席と不安と、小学校から続いているパニック発作。

風景はぼんやりしていて、今でも渡り廊下の冷たいコンクリートの感覚がある、それだけ。
そんな状況下では勉強もほとんど手につかず、成績がいいのは、国語…美術、たまに英語。
それも特に授業を聞いたからではなく、ひたすら本の世界に入り浸り、描き殴った成果だった。


家から自転車で通える高校は、たったひとつだった。
入ったそのタイミングで古かった校舎は新築され、制服もデザイナーを使い、パターンを選べるようになっていた。
入った部活の先輩には、羨ましがられたものだった。

そして何より、
それはもうとんでもなく偏差値は低く、
金銭面においても県立の最低価格だった。

新しい木の匂いのなか、同じタイミングで産まれ変わったその学校で、少しだけ勇気を出して…
前の席と、後ろの席の子に、自分から声を掛けた。

意外なほどあっさりとクラスの中に溶け込み、よく笑い絵を描き本を読み音楽を聴く、外から見れば普通の女子高生だっただろうと思う。

全てにおいて後手後手に気付くのは、突発的に行動してしまう今も変わっていない。
何のことはない、私は演技をしていただけ、だったのだ。
笑う演技、明るい演技を、自動的にしていただけ。

ただ、それで変わったものも沢山あった。
今で言うクラスカーストみたいなものも無くはなかったけど、別にいじめもなかった。
口数も少なく、なんとなく馴染めていないと感じた子には、きっと少し前の自分を投影したのだろう。
積極的に話しかけて、どのグループともなく、ひとつの纏まりを基盤に話しかけた。

「学校」という括りの中で言ってしまえば、たった一瞬の三年間だったと思う。
私はその頃知った、切なく素朴なミュージシャンの影響も大きくあって、それを夕飯後、部屋にこもっては果てしなく聴き、
そして、泣く事を思い出した。

音楽を言い訳にした涙は毎晩欠かさず大量に流れ、そしてその三年間だけは、私は奇跡的に眠れた。

泣き疲れて、眠る。

起きれば楽しい学校が待っている。


仮病も使わなくなった。
毎日自分から、進んで登校した。

かりそめの笑顔でも、私には大切なエネルギーだった。

18になり卒業し、日本で最も人口密度の多い都市で、初めて出来た恋人と同棲して…、

そこから、演技を取り払うことは、とても一言では言い表せない、沢山の経験を詰んだ。


時は遡って、小学校一年生の終わりごろ、
幼稚園に通う前から仲の良かった友達に、
私はその先のことを何も知らず、飾りも演技もない笑顔で手を振った。
「これからね、おばあちゃんのところに遊びに行くんだ。またね、」って。

その時は引っ越すということがよくわからなくて、今までの家が違う家になって、
エレベーターもなくて
いつも「お土産は何がいい?」って聞いてくれた、優しいパパも居なくなって、
知らない怖い親戚に預けられて、いつも一緒だったママは入院して、

毎晩ママって泣くんだけどおじさんに怒られて、おばさんになぐさめられて、知らないお兄さんが二人いて…。


やっと「ママ」が私を連れて隣りの町に引っ越して、また学校が変わって。


都会からの転入生に、村社会の人たちは冷たくて、ただ期待か好機の眼差しで見られた。

それはすぐだった。
幼稚園の入園式も、お遊戯会も、お泊まり会も、退屈だったリカちゃん人形よりも、男の子が乗るペダルを漕いで進む子供用の自動車もどきを欲しがって困らせたことも。

夢中でお砂場遊びをして、皆帰っても気付かなくて、母が心配して探しにきてくれたことも…

ショートケーキで胸やけして、甘い物が苦手だったことも
買ってもらったドラえもんのインスタントカメラのことも

何もかもがすべて愛されていて、輝いていて、泣き虫で素直に甘えられて…

ただ、二度目の転校を終え、その後のことは一転して酷くつらかった瞬間を、途切れ途切れに覚えているだけ。


大好きで優しいママは、世間体を気にして、嫌がる私を無理やり学校に連れていった。
教師とクラスメイトのいじめのことも口に出来なかった。
変質者に追いかけられて必死で逃げ、帰って泣きついても、それでも学校に行かされた。


五年生の頃には既に不眠症だった私は、真冬でまだ薄暗い雪深い日に、命を断ちにさまよい歩き、
巡回した教師に見つけられ、その時ばかりは家に返された。
…それでも、母は仕事に行ったまま、夕方まで帰っては来なかった。

あんなに優しかったママが
なんだか別の人間に見えた

ある事件を境に、甘えたくて繋いでいた手が、触れたくない手に変わった。


ただひとつ、今だから言える事がある。
母は、私を愛していなかったのではない。
母自身もまた「村社会の常識」にとらわれ、葛藤していた。
母もまた、1人の人間であり、少し依存気味ではあっても、私の事を今でも愛してくれている。

そして、私は今は、母にありがとうと言える。
ママがおいしいね、と笑えば、少し苦手な味がする食材でも、何だってすぐに美味しいと思えた。
だから私には今でも、嫌いな食べ物は無い。

幼少期の多幸が、私をここまで連れてきてくれたのだから。
母は最初は私の独白に自身を責めていたけれど、ただそれを始めたのは、もう感謝の気持ちを伝えられるまでに整っていたからだった。


ただ、
ひたすら、
私は欠けたものを探しては見つからない事で、
絵の腕と歌唱力でそれを埋めてきた。

それはいびつながらに形成されたものだったけど、人をうならせることが出来る。

そしてやっと見つかった。
どの医者も口にしなかった
「限局性健忘」

記憶の無いこの現象に名前があったと知っただけで、私のすべてが証明された。
私にはわかる。この感覚でハズレたことは、一度もない。
勝てる、久しぶりにそう思った。

ただ鬱と不眠の薬を貰いに行くだけだった病院だけど、すべて話して駄目なら、また別を当たればいい。

今私のいる「ここ」は
村社会じゃない。数多の病院の中から、タクシーで一つ一つピックアップしていけばいい。


コロナウイルスが息を潜めたころ、
10年来の帰省をして、
やっと私の「第五章」が、完結する。


今までもやってきたように、常識に囚われないだけでいい。
うつ病には寛解しかない、という常識を、先に待つ幸せの為に痛みを受けても破っていこう。