すこし、考えていました…。


ブログに書いていいのか、どうか…迷っていましたが

衝撃(しょうげき)の、藤圭子(ふじ けいこ)さんの死から

少し時間が経(た)ちましたので、ちょっとだけ触れてみたいと思いました。


詳(くわ)しいこと何もわかりません…

沈黙を守っておられた、娘の宇多田ヒカルさんが

初めて、コメントを出されたので、ご紹介します…




宇多田ヒカルさんがコメント

「母の笑顔が浮かぶ」


歌手・宇多田ヒカル(30)さんが26日(月)、
母の藤圭子さん(享年62)の死後、初めてコメントした。


「自らの公式サイトで宇多田は、

『8月22日の朝、私の母は自ら命を絶ちました。

さまざまな臆測(おくそく)が飛び交(か)っているようなので、
少しここでお話をさせてください』と切り出し、

『彼女はとても長い間、精神の病(やまい)に苦しめられていました』と
明かした。

『その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、
家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、
ずっと悩んでいました。

幼い頃(ころ)から、母の病気が進行していくのを見ていました。
症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、
現実と妄想(もうそう)の区別が曖昧(あいまい)になり、
彼女は、自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。

わたしはただ翻弄(ほんろう)されるばかりで、何もできませんでした』と
娘として苦しい胸の内を明かした。

さらに、
『母が長年の苦しみから解放されたことを願う反面、
彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔(こうかい)の念が
募(つの)るばかりです。

誤解されることの多い彼女でしたが… 
とても怖(こわ)がりのくせに鼻っ柱が強く、
正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、
子どものように衝動(しょうげき)的で危(あや)うく、おっちょこちょいで
放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。

悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。
母の娘であることを誇りに思います。

彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。
たくさんの温(あたた)かいお言葉をいただき、多くの人に支えられていることを
実感しています。ありがとうございました』と気丈につづった。」
                 (「日刊スポーツ・ウエブサイトから抜粋」)




$いなか道のブログ



「1951年7月5日 岩手県一関市生まれ、北海道旭川市育ち。

幼い頃から浪曲歌手の父・阿部壮(つよし)、
三味線瞽女(ごぜ)の母・竹山澄子(2010年に死去。享年80)の門付に同行。
旅回りの生活を送り、自らも歌った。

勉強好きで成績優秀だったが、貧しい生活を支えるために、
高校進学を断念。17歳の時に『さっぽろ雪まつり』のステージで歌う姿が
レコード会社の関係者の目に留まり、上京。
約1年間、林家三平宅に下宿する。

1969年9月25日、RCAレコードより「新宿の女」でデビュー。

以後、作詞家の石坂まさをと組んでヒット曲を連発。
女性ハスキーヴォイスの先駆者・青江三奈(青江みな)をも凌(しの)ぐ
ドスの効いた声は、当時の社会に衝撃を与えた。

ファーストアルバム「新宿の女」は20週連続1位。
間を置かずリリースされたセカンドアルバム「女のブルース」は
17週連続1位を記録。
計37週連続1位という空前絶後の記録を残す。

そのヒットから、テレビアニメ『さすらいの太陽』のヒロインの
モデルにもなった。

2013年8月22日逝去。


瞽女(ごぜ)=「盲御前(めくらごぜん)」という敬称に由来する
 女性の盲人芸能者。

 近世までにはほぼ全国的に活躍し、20世紀には新潟県を中心に
 北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓(こきゅう)を弾き唄い、
 門付巡業を主として生業とした旅芸人である。
 女盲目(おんなめくら)と呼ばれる場合もある(ウィキペディアから)

 注:「めくら」は現在差別用語とされています。
   「目の不自由な人」「盲人」と表記されています。(いなか道)



いま、深い悲しみに耐えて、コメントを出された

宇多田ヒカルさんに、心からの哀悼(あいとう)の意を表したいと思うのです…



藤圭子さん、お疲れさまでした。

安らかにお眠りください。