おはようございます☆


   

    いきなりですが…

   みなさんは
「智恵子抄(ちえこしょう)をご存じですか?


   そう…詩人で彫刻家の「高村光太郎」が著(あらわ)した詩集ですね♪

   
   ちょっと、ググってみました(笑)


   「1914年に処女詩集『道程』が出版されて以降、『智恵子抄』は

   2冊目の詩集にあたる。


   智恵子とは妻の高村智恵子のことであり、彼女と結婚する以前(1911年)から

   彼女の死後(1941年)の30年間にわたって書かれた、彼女に関する詩29篇、

   短歌6首、3篇の散文が収録されている。」
(ウィキペディアから)



   その詩集の中の「あどけない話し」がとても好きなんです♪

 
   

    ”智恵子抄”から『あどけない話』



    「智恵子(ちえこ)は東京に空が無いといふ(う)、


    ほんとの空が見たいといふ。




    私は驚いて空を見る。


    桜若葉の間に在(あ)るのは


    切つても切れない


    むかしなじみのきれいな空だ。




    どんよりけむる地平のぼかしは


    うすもも色の朝のしめりだ。




    智恵子は遠くを見ながら言ふ。


    阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に


    毎日出てゐ(い)る青い空が


    智恵子のほんとの空だといふ。



    あどけない空の話である。」





    智恵子が「ほんとうの空」と言った故郷・福島県「あだたら山」に広がる空…

$いなか道のブログ





                     現存している智恵子のポートレート
$いなか道のブログ




       「花巻の山荘に暮らす光太郎は、昭和24年10月、
      智恵子の裸像をこの世に残して、
      天然の素中に帰る(この世を去る)ことが最後の望みと「裸形」を発表した。
      このとき光太郎67歳。やがてその機会が訪れた。

      青森県が、十和田湖の国立公園指定15周年の記念として、十和田開発に
      功のあった武田千代三郎、小笠原耕一、大町桂月の顕彰碑を建てる
      ことになり、その制作の依頼である。
      時の県知事は作家の太宰治(だざい おさむ)の実兄である
      津島文治であった。

      光太郎は昭和27年6月、十和田湖を訪れ、「彫像は裸像でも良いか」と
      同行した十和田委員会の一行に尋ね、「(県の説得に)尽力する」という
      返事に安心したのか、すぐさま「智恵子を作ろう」といったといわれる。

      十和田湖の大自然が、智恵子を永遠に残す決心を光太郎に
      させたのである。」


      「わたくしの手でもう一度、
      あの造形(智恵子の裸形)を生むことは
      自然の定めた約束であり、
      そのために私に肉類が与へられ、
      そのためにわたくしに畑の野菜が与へられ、
      米と小麦と牛酪(バター)とがゆるされる。
      智恵子の裸形をこの世にのこして
      わたくしはやがて天然の素中に帰らう。(この世を去ろう)」
 (高村光太郎)




      「乙女(おとめ)の像」(作:高村光太郎) 青森県・十和田湖畔にて
$いなか道のブログ


 
     皆さんも、十和田湖を訪れる機会があれば

     ぜひ、この智恵子の像に出会ってください…


     わたしは、実際にこの目で像を見ましたが、それは…

     呼吸する生きた智恵子を感じさせてくれました。


     光太郎の、智恵子への思いがこの像に命を与えた…

     そんな思いがしました。

     


     智恵子が、「ほんとうの空」と言った「あだたら山」の上の空に

     いつか会いに行きたいと思っています♪




     ふぅ~…長かった(笑) なんとか更新できました(^-^)

     ほな(笑)…

          ペタしてね