山低いし、トレイルは短く車道もあるし、ってことで、今まで気乗りしなかったのですが、
河口慧海が少年時代に親に連れられ何度も来ていたことを数年前に知ってから、
いつかは行かねばと心に引っかかってはいました。
そんなとき、この山に、その名も猪上神社(今年の干支!)があると知り、おまけに、
MBSちちんぷいぷいでの放映も目にし、機が熟したのか!と、今日の山行に相成り
ました。
結果としては、行ってすごく良かったです。今後もいろんな人と何回も行きたいと思える
見どころ満載の場所だと分かりました。出発前、チェックするべきいくつかのミッションを
掲げていきましたが、すべてクリア!それも気分が良かったです。
信貴山山頂(信貴山城二の丸)
大和支配の重要な拠点となった山城があった場所。奈良県最大規模の、戦国時代の
山城で、山頂(雄岳)には4層の天守閣があったそう。天守閣建造は日本最古では
ないかといわれており、なんと、織田信長はこの城を参考に、安土城を建てたと言わ
さて、出だしに戻って・・・。
今日は電車が止まる事件から始めった・・・💦 予定より30分ほど遅いスタートとなる。
650年前のものを整備して作られたという恩智神社の石段を登る。駅から続く参道は、
寄ってみたくなる魅力的なお店があったり、蔵のある立派な建物があったり、さすが
河内国二宮を誇る神社だ。
イノブタに注意の看板から山道に入る。
12世紀ごろ、信貴山山中に朝護孫子寺が出来てから、参拝のために大阪側から整備
されたルート。多くの人が行き交ったのだろう、しっかりした太いトレイルをゆるやかに
登る。霊園脇から北に続く高安山へのルートを左に分け、しばらく歩くと、農業公園の
大きなゲートがあり、舗装道路となる。あいにく定休日だった(残念パート1)が、入園せず
県境をまたぎ車道を下って集落を抜けると、とっくり池にかかるつり橋にでる。ちょっと
したアトラクションに心はずむ。その後、朝護孫子寺の門前町を抜けると、大門ダムに
かかる開運橋にでる。左前方には信貴山の雌岳(たぶん)の小山がちょこんと見えて
いる。
橋を渡ってすぐ鳥居のあるのが興味深い。神仏習合という日本独自の宗教観がみて
とれる。神額には多聞天と書かれている。多聞天とは仏さんで四天王の一人だけれど、
単独の時は毘沙門天という神さんになる、とちちんぷいぷいで笑い飯哲夫が話してた。
つまり、持国天、増長天、広目天と共にある場合は、仏として多聞天といわれる。独尊の
場合は、毘沙門天とされる、ということ。
開運橋を左に行くと本堂への道となるが、まずは右手にある今年の干支のお寺、猪上
神社へ。
もともとは本堂横にあり、信貴山を「拝む(おがむ」から転訛し「猪上(いがみ)」となった
のではないかとのこと。明治の神仏分離令で惣門外に移され、その後、今の場所に再
移築されたそう。
鳥居をくぐると、ガイドブックやテレビで何度も何度も目にしていた大きな振り子の寅が
目に飛び込んでくる。奥の高台には本堂が見える。このお寺のシンボルは「寅」 土日
には電動で首が動く!本日木曜、残念パート2(笑)!
その昔、仏教を広めようとしていた聖徳太子が、反対する物部氏を倒そうとこのお寺に
戦勝祈願をしたら、毘沙門天が現れて秘法を授けたのだと・・・。それが寅年寅日寅の
刻。そのご加護により戦いに勝ち、世を納めることができたとして、聖徳太子自らで
毘沙門天を彫り、伽藍を立てて、「信じるべき貴ぶべき山=信貴山」と名付け、以降、
寅ゆかりの神さんとしてお祀りされているのだとお寺の縁起に記されている。
ただ、その史実を明らかにするものはなく、創建に関してはいろいろな説があるよう。
このお寺の国宝「信貴山縁起絵巻」には、信貴山で修業していた命蓮(みょうれん)と
いう聖が醍醐天皇の病を治したことが書かれているそうで、他の平安時代の歴史書
などでも、聖徳太子の記載はなく、醍醐天皇の頃には毘沙門天を祀り修行僧がいる
庵があったことは間違いないとされている。
笑い飯哲夫曰く、この絵巻は日本最古のマンガです!と(笑)!こういう説明が聞ける
と、宗教も歴史ももっと楽しくなるなるよね~~。マンガ原本は奈良の国立博物館に
所蔵され、ここ(霊宝館・300円)にはレプリカが置かれているそう。後ろ向きの醍醐
天皇が描かれていて、信貴山の聖が天皇の病を治したことが伺えるとのこと。
ちなみに、朝護孫子寺、という言いにくく覚えづらい名前は、「朝廟安穏・守護国土・
子孫長久」の祈願寺として、醍醐天皇が「朝護孫子寺」の勅号を与えたものだそう。
本堂に上がると、毘沙門天王の神額になっている。両サイドのムカデは天王の使い。
信貴山にすぐ行こう!と思い立ったのは、このお寺の「転読法要」を見たかったから。
そして!!
タイミングよくその法要が始まり、私たちも外陣から参加できたというミラクル!!!
木曜だし、来週末は「寅まつり」だし…、参拝者も少ないだろうからと諦めていたので、
太鼓が鳴り出した途端に、みなで顔を見合わせた(笑)!
転読とは、600巻もの大般若経を短時間で読み上げる法要のことで、パラパラ絵本
ではないが、蛇腹状にしたお経を、高く上げた左手から下の右手へパラパラパラと
落とし、お経を速読したとする手法。主に密教系の寺院に多いとのことなので、手で
クルクル回すお経入りのマニ車や、風になびかせるお経が書かれた旗、タルチョと
同じ考え方なのかもと勝手に想像している。(朝護孫子寺は真言宗)
太鼓や机?をバンバンたたいて、大声で叫び、経典がパラパラパラと宙を舞う様子は
短時間ながらも、全てのエネルギーが凝縮した大きな力を感じる。祈りは天に通じ、
正も負も何もかもがガガガーと動かされて巡る感じ。内陣奥には毘沙門天が力強い!
さて、私たちは山のぼら~!信貴山に登らねば! 一番重大なミッションをハタと思い
だし、通り過ぎた分岐を戻って、信貴山城があった山頂を目指す。
鳥居をいくつもいくつもくぐってひと汗かく。活き活きとした(表現変?!)お寺の法要に
参加したけど、お参りは二礼二拍手一礼だし、あちこち鳥居だらけだし・・・。
どっちやねん!と思いつつ、これこそが日本なんだろうなとも思う・・・。山や木々や石
など、様々な自然物に神の存在を感じつつ、大陸産の仏教を受け入れ、全てを融合
させた神仏習合は、曖昧を良しとする、日本らしい祈りの形だとつくづく思う。頭で一応
区分けしていても、いざとなったら、「神さま仏さま~~」って言ってるもんね・・・(笑)!
山頂は雄岳、雌岳からなり、雄岳には先述の天守閣があったそう。500mにも満たない
低山ながら、景色は素晴らしく、大和平野を一望のもと。左手に矢田丘陵が少し見え、
正面には青垣の山なみが連なっている。大和支配の重要な拠点だった、というのも
納得の景色だった。
(写真は南側の景色。二上山、葛城山、金剛山が、中央やや左には信貴山雌岳が
写っている)
さて、下山して河口家奉納の絵馬を見に行く。
その場所である休憩所は、惣門から赤門への途中にある納経所横にあり、来週末に
ある寅まつりの準備中だった。奉納された寅たちがきれいに並べられて圧観!
数年前、河口慧海研究会で高野山大学の奥山先生から、慧海のお父さんが毎月、寅の
日に月参りをして、絵馬を奉納したことを教えていただき、その時の資料に絵馬の写真が
あり、よく覚えていたので、すぐ見つけることができた。
絵馬には、「河口姓子」、その横に慧海の幼名「定治良(さだじろう)」と書かれている💛
寅の姿は浪銭(浪模様が入った江戸時代のお金)が打たれていたらしいが、全て落ちて
しまっている。それでも寅の姿はしっかりと確認できた。
慧海がエネルギーの塊みたいな転読法要を見たかはともかく、熱心に参る父の姿に
幼心に何か感じところはあっただろうし、その先には仏教とは何ぞや?という疑問や
興味も抱いただろう。自身が寅年生まれというのもまた縁かも・・・。
私的にメインのミッションがこれだった(笑)!
これにて、朝護孫子寺でのミッションを全て完遂し、お山を辞す。
立派な仁王門のすぐそばに、これまたものすごい千体地蔵がある。室町~江戸時代に
かけてのものだそう。信仰の篤さがうかがえる。
信貴山下駅への道は、昭和58年に廃止されてしまったケーブルの廃線跡を一直線に
下る。休憩用だろう、時々、日よけパラソルの下にテーブル、椅子が配置され、中には
置き傘なんかもあって、地元愛を感じる(笑)!
そういえば、インフォメーションセンターの方がおもしろいことを言っていた。
黒部立山アルペンルートに対抗して、信貴生駒アルペンルート。県境を挟んで、どちら
にもケーブルカーやバスなどがあるよ~~、と。無理くりだけど、政治的な一面も含め
どちらの山麓からも大切にされていたお山であることには違いない。
駅手前の公園で、甘酒&おやつ休憩を取り、エネルギー&アミノ酸の補給をする。
近場なのに馴染みのない路線なので、耳慣れない駅名や景色に、旅モードも楽しみ
つつ、生駒駅で乗り換えて難波に戻った。
慧海を仏門の道にいざなったかもしれない信貴山、小さい山行きながら、いやいや
なかなか、見応えたっぷりの一日だった。