「戦場の武士道・安江仙弘①」からの続き
【ナチスと日本軍国主義の共通点】
ヒトラーは「シオン賢者の議定書」を熱狂的に支持し偽書と知りながら「歴史的に真実かどうかなどはどうでもよい。内容的に真実であれば体裁などは論ずるに足らん」と述べ、ユダヤ人世界征服陰謀を悪とし、自らの世界制覇を正義とするためにシオン賢者の議定書を利用した。さらにドイツ人は純粋なアーリア人の血を引く世界で最も優秀な民族であり、ユダヤ人が最も劣等な民族であると主張しユダヤ人絶滅計画ホロコーストを遂行しました。
ナチスは「シオン賢者の議定書」と「アーリア民族優越論」、日本の軍部は「シオン賢者の議定書」と天皇を「現人神」と仰ぐ「神国思想」、両者とも極端な反ユダヤで自国民族優越論でした。ヒットラーは黄色人種の日本人をも劣等人種と『我が闘争』に書いています。
話を安江仙弘に戻しますと、1927年ユダヤ研究を命じられた際、反ユダヤの誤りを悟り、親ユダヤへ方向転換します。
【その後の安江と満州国 】
・1935年2月、日本民族とユダヤ民族間の親善実行団体として「世界民族文化協会」を創立し、自ら会長となって、、在満ユダヤ人の保護に尽力し、また回教徒や白系ロシア人にも助力した。
・1938年の五相会議で政府の方針として定まった「河豚計画」を犬塚惟重と共に構想主導した。河豚計画とはヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き入れ、自治区を建設する計画であった。
・1940年9月、日独伊三国軍事同盟が締結され、反米、反ユダヤの世論が高まると、軍部にとって安江の存在は目障りになり、憲兵隊の尾行がつくようになる。
・1940年10月、軍中央部の方針と意見が合わず、東条英機陸相によって、予備役に編入される。
・1945年8月、大連でソ連軍に逮捕され、1950年、ハバロフスク収容所で病死、墓地はハバロフスクにあり筆者はここを訪れたことがあるのだが、安江氏の墓は記憶にない。安江にとって、敗戦後いち早く帰国するのはたやすいことだった。しかし「日本をこのようにしてしまったのは、我々年配の者達の責任だ、俺はその責任を取る。ソ連が入って来たら拘引されるだろう。俺は逃げも隠れもしない」]と言い残し、ついに凍土に没した。在留邦人を見捨てて日本への帰途を急いだ関東軍の高級将校が少なくなかったなかで、出所進退の潔さが際立つ生涯だった。
戦後まもなく、進駐軍から安江家に連絡が入り、横浜のユダヤ教会堂を訪ねると人々が一斉に起立し、安江の遺族の面倒を見たいという申し出があった。安江家は長男が昼間働いて夜は大学に通い一家の生計を立てるという、苦しい経済状況であったが好意だけ受けて辞退した。
1954年巨漢の男が「安江さんの葬式はやりましたか?」と聞いてきた。「まだやっていない」と答えると、「在日ユダヤ人協会で一切の費用を持つから好きなようにやって下さい、安江大佐への恩返しの気持ちだから、葬式を出してくれ」と頭を下げて頼み込み始めた。
遺族は、この男の熱心さに打たれて葬式を執り行なった。
この男の名前はミハエル・コーガンで、「極東のユダヤ人保護」に奮戦する安江大佐に感銘を受け、親日家となり、1939年(19歳の時)に来日し、東京の「早稲田経済学院」で貿易実業を学んだ。5年間の日本滞在中、ロシア文学者の米川正夫氏の家に下宿し、彼のドストエフスキーの翻訳を手伝った。
後にコーガンは次々に日本のアミューズメントの世界を変えていった。
日本初の業務用テレビゲーム「エレポン」を発表し、テレビゲーム市場を築いた。1977年には「ブロック崩し」でテーブル式ゲームマシンを発売し、ゲームセンターだけでなく喫茶店にも販路を拡大した。翌年1978年、「スペース・インベーダー」を発表、空前の大ヒットとなり、社会現象になった。
参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%B1%9A%E8..
(左)1954年4月26日、青山斎場で行なわれた安江大佐の慰霊祭。
(右)ハバロフスクにある安江大佐の墓地


【ナチスと日本軍国主義の共通点】
ヒトラーは「シオン賢者の議定書」を熱狂的に支持し偽書と知りながら「歴史的に真実かどうかなどはどうでもよい。内容的に真実であれば体裁などは論ずるに足らん」と述べ、ユダヤ人世界征服陰謀を悪とし、自らの世界制覇を正義とするためにシオン賢者の議定書を利用した。さらにドイツ人は純粋なアーリア人の血を引く世界で最も優秀な民族であり、ユダヤ人が最も劣等な民族であると主張しユダヤ人絶滅計画ホロコーストを遂行しました。
ナチスは「シオン賢者の議定書」と「アーリア民族優越論」、日本の軍部は「シオン賢者の議定書」と天皇を「現人神」と仰ぐ「神国思想」、両者とも極端な反ユダヤで自国民族優越論でした。ヒットラーは黄色人種の日本人をも劣等人種と『我が闘争』に書いています。
話を安江仙弘に戻しますと、1927年ユダヤ研究を命じられた際、反ユダヤの誤りを悟り、親ユダヤへ方向転換します。
【その後の安江と満州国 】
・1935年2月、日本民族とユダヤ民族間の親善実行団体として「世界民族文化協会」を創立し、自ら会長となって、、在満ユダヤ人の保護に尽力し、また回教徒や白系ロシア人にも助力した。
・1938年の五相会議で政府の方針として定まった「河豚計画」を犬塚惟重と共に構想主導した。河豚計画とはヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き入れ、自治区を建設する計画であった。
・1940年9月、日独伊三国軍事同盟が締結され、反米、反ユダヤの世論が高まると、軍部にとって安江の存在は目障りになり、憲兵隊の尾行がつくようになる。
・1940年10月、軍中央部の方針と意見が合わず、東条英機陸相によって、予備役に編入される。
・1945年8月、大連でソ連軍に逮捕され、1950年、ハバロフスク収容所で病死、墓地はハバロフスクにあり筆者はここを訪れたことがあるのだが、安江氏の墓は記憶にない。安江にとって、敗戦後いち早く帰国するのはたやすいことだった。しかし「日本をこのようにしてしまったのは、我々年配の者達の責任だ、俺はその責任を取る。ソ連が入って来たら拘引されるだろう。俺は逃げも隠れもしない」]と言い残し、ついに凍土に没した。在留邦人を見捨てて日本への帰途を急いだ関東軍の高級将校が少なくなかったなかで、出所進退の潔さが際立つ生涯だった。
戦後まもなく、進駐軍から安江家に連絡が入り、横浜のユダヤ教会堂を訪ねると人々が一斉に起立し、安江の遺族の面倒を見たいという申し出があった。安江家は長男が昼間働いて夜は大学に通い一家の生計を立てるという、苦しい経済状況であったが好意だけ受けて辞退した。
1954年巨漢の男が「安江さんの葬式はやりましたか?」と聞いてきた。「まだやっていない」と答えると、「在日ユダヤ人協会で一切の費用を持つから好きなようにやって下さい、安江大佐への恩返しの気持ちだから、葬式を出してくれ」と頭を下げて頼み込み始めた。
遺族は、この男の熱心さに打たれて葬式を執り行なった。
この男の名前はミハエル・コーガンで、「極東のユダヤ人保護」に奮戦する安江大佐に感銘を受け、親日家となり、1939年(19歳の時)に来日し、東京の「早稲田経済学院」で貿易実業を学んだ。5年間の日本滞在中、ロシア文学者の米川正夫氏の家に下宿し、彼のドストエフスキーの翻訳を手伝った。
後にコーガンは次々に日本のアミューズメントの世界を変えていった。
日本初の業務用テレビゲーム「エレポン」を発表し、テレビゲーム市場を築いた。1977年には「ブロック崩し」でテーブル式ゲームマシンを発売し、ゲームセンターだけでなく喫茶店にも販路を拡大した。翌年1978年、「スペース・インベーダー」を発表、空前の大ヒットとなり、社会現象になった。
参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%B1%9A%E8..
(左)1954年4月26日、青山斎場で行なわれた安江大佐の慰霊祭。
(右)ハバロフスクにある安江大佐の墓地

