身重のマリアはエルサレムへ向かう途中、5km位手前のベツレヘムで産気づき、この町でイエスは誕生する。イエスの誕生を祝う12月24日のクリスマスはキリスト教のお祭りであり、この国に住むユダヤ教徒とイスラム教徒には関係ない、しかし夜になると海外からの観光客でベツレヘムは一杯になる。

1986年私はベツレヘムの近くのキブツ KIBBUTE NETIV HALAMED HEI でボランティアをやっていた。ここは旧約聖書でダビデが巨人ゴリアテを倒した舞台でもあり、古代の古銭が見つかることもあるらしい。
ボランティアのほとんどはヨーロッパ人、それからロシア人が1人、日本人が1人だった。私の職場には年配のユダヤ人が5人位いて、彼らの視線が私に好意的でないと感じながら働いていた。
働き始めて2週間位経ったある日の休憩時間、一人の老人が話しかけてきた「あなたは日本人ですか。」「はい 日本人で名前はSUGAHARAといいます。」「ええッ SUGIHARA! センポ 杉原(杉原 千畝)さんの子供が今イスラエルにいると聞いているがあなたは彼の子供ですか。」「いいえ 私は杉原さんを御存じありません。」周りのユダヤ人もボランティアも全員私達の話に注目していた。
老人は話し始めた
第二次世界大戦で我々ユダヤ人は動物のように殺されました。私達家族はポーランドを捨てリトアニアのカウナスに逃げました。そこからシベリア鉄道と船で日本へ、日本からアメリカへ渡りたかったんです。しかしソ連は日本の通過ビザがなければ、ソ連も通過ビザを発行しなかった、そこでカウナスの日本領事館へ行ったんです。

「そこには私の家族と同じ考えでビザを要請するユダヤ人で一杯でした。ナチスのユダヤ人狩りで西側にはもう逃れるルートはなく、唯一残された生存の道はここしかなかったのです。」
話を聞いてたユダヤ人の一人が言った「日本はナチスと同盟を結んでいたから、ナチスに敵対するビザ発行などする訳がないでしょう。」
「そうなんです、しかし我々に残された唯一の希望はそれしかなかった、そこで我々は代表を選び領事の杉原 千畝さんと交渉しました。彼は家族で住んでいたからナチスに敵対すれば、家族の命も危険だったんです。彼は悩みましたが我々に協力し、何度も日本政府にビザ発行許可を要請したのですが、当然答えはNOでした。

我々に残された時間は少なかった、それで杉原さんは政府の指示を無視しビザを発給したのです。まもなく日本政府とソ連政府から杉原さんに退去命令が出てホテルへ移ると我々はホテルへ押しかけ、1940年8月31日リトアニアを去る列車の中でも彼はビザを書き続けたのです。走り出す列車を追いかけ泣きながら「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」と叫びました。6000人位のユダヤ人が彼に救われたのです。
時が経ち戦争が終わり、我々は命の恩人杉原さんを探したのですが、日本政府の答えは「該当者なし」でした。ようやく彼の所在が解り昨年イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞したのですが、病気と高齢で出席できず、子供が代理で出席し現在もイスラエルにいます。それであなたが杉原さんの子供だと思ったのです。この出来事以来私を見る彼らの目が変わった。
この年1986年7月31日、86歳で杉原千畝はその生涯を閉じた。日本政府による名誉回復が行われたのは、21世紀間近になってのことだった。

・・・・・・・・・以下Wikipediaよりコピー・・・・・・・・・
これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。
― 2000年10月10日の河野洋平外務大臣による演説
2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災が発生し、地震と津波による甚大の被害が世界中に報道されるや、内外のユダヤ人社会から、第二次世界大戦時にユダヤ難民の救済に奔走した杉原の事績を想起すべきとのアピールがなされた・・・・・・・・・・・
窮状にある人々に手を差し伸べることは、主のいつくしみの業に倣うことである。今こそ、身職を賭して通過ビザを発給し、リトアニアから6,000人ものユダヤ人を救ってくれた杉原夫妻の恩義に報いる時である。
— 東日本大震災への義援金を募る際の米国のユダヤ人組織オーソドックス・ユニオンによる公式声明
・・・・・・・・・・・コピーここまで・・・・・・・・・・・・・・
※戦場の武士道・樋口季一郎 へ続く

1986年私はベツレヘムの近くのキブツ KIBBUTE NETIV HALAMED HEI でボランティアをやっていた。ここは旧約聖書でダビデが巨人ゴリアテを倒した舞台でもあり、古代の古銭が見つかることもあるらしい。
ボランティアのほとんどはヨーロッパ人、それからロシア人が1人、日本人が1人だった。私の職場には年配のユダヤ人が5人位いて、彼らの視線が私に好意的でないと感じながら働いていた。
働き始めて2週間位経ったある日の休憩時間、一人の老人が話しかけてきた「あなたは日本人ですか。」「はい 日本人で名前はSUGAHARAといいます。」「ええッ SUGIHARA! センポ 杉原(杉原 千畝)さんの子供が今イスラエルにいると聞いているがあなたは彼の子供ですか。」「いいえ 私は杉原さんを御存じありません。」周りのユダヤ人もボランティアも全員私達の話に注目していた。
老人は話し始めた
第二次世界大戦で我々ユダヤ人は動物のように殺されました。私達家族はポーランドを捨てリトアニアのカウナスに逃げました。そこからシベリア鉄道と船で日本へ、日本からアメリカへ渡りたかったんです。しかしソ連は日本の通過ビザがなければ、ソ連も通過ビザを発行しなかった、そこでカウナスの日本領事館へ行ったんです。

「そこには私の家族と同じ考えでビザを要請するユダヤ人で一杯でした。ナチスのユダヤ人狩りで西側にはもう逃れるルートはなく、唯一残された生存の道はここしかなかったのです。」
話を聞いてたユダヤ人の一人が言った「日本はナチスと同盟を結んでいたから、ナチスに敵対するビザ発行などする訳がないでしょう。」
「そうなんです、しかし我々に残された唯一の希望はそれしかなかった、そこで我々は代表を選び領事の杉原 千畝さんと交渉しました。彼は家族で住んでいたからナチスに敵対すれば、家族の命も危険だったんです。彼は悩みましたが我々に協力し、何度も日本政府にビザ発行許可を要請したのですが、当然答えはNOでした。

我々に残された時間は少なかった、それで杉原さんは政府の指示を無視しビザを発給したのです。まもなく日本政府とソ連政府から杉原さんに退去命令が出てホテルへ移ると我々はホテルへ押しかけ、1940年8月31日リトアニアを去る列車の中でも彼はビザを書き続けたのです。走り出す列車を追いかけ泣きながら「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」と叫びました。6000人位のユダヤ人が彼に救われたのです。
時が経ち戦争が終わり、我々は命の恩人杉原さんを探したのですが、日本政府の答えは「該当者なし」でした。ようやく彼の所在が解り昨年イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞したのですが、病気と高齢で出席できず、子供が代理で出席し現在もイスラエルにいます。それであなたが杉原さんの子供だと思ったのです。この出来事以来私を見る彼らの目が変わった。
この年1986年7月31日、86歳で杉原千畝はその生涯を閉じた。日本政府による名誉回復が行われたのは、21世紀間近になってのことだった。

・・・・・・・・・以下Wikipediaよりコピー・・・・・・・・・
これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。
― 2000年10月10日の河野洋平外務大臣による演説
2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災が発生し、地震と津波による甚大の被害が世界中に報道されるや、内外のユダヤ人社会から、第二次世界大戦時にユダヤ難民の救済に奔走した杉原の事績を想起すべきとのアピールがなされた・・・・・・・・・・・
窮状にある人々に手を差し伸べることは、主のいつくしみの業に倣うことである。今こそ、身職を賭して通過ビザを発給し、リトアニアから6,000人ものユダヤ人を救ってくれた杉原夫妻の恩義に報いる時である。
— 東日本大震災への義援金を募る際の米国のユダヤ人組織オーソドックス・ユニオンによる公式声明
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※戦場の武士道・樋口季一郎 へ続く