映画を観て想う

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「すべてが半端に終わった感否めず」ZガンダムⅢ 星の鼓動は愛 を観て想う。



「ガンダム」に特別の思い入れがある人間が日本中にどれだけ存在するだろう。
ファーストガンダムのみをガンダムとしか受け入れない者、
富野作品以外のガンダムを邪道とする者、
それぞれ立場は異にするもののそれはガンダムを愛するが故の所作であろう。
日本国民の共有財産と言っても、もはや言い過ぎにはならない。
それだけ観る側が特別の思い入れを持っている作品である。

そのガンダムの(富野監督の作品であるということにおいて)
正統の続編であるZガンダムをリメイクするということは
よほどの完成度を観る側に提示しない限りファンからの吊るし上げは免れない。
そうじゃなければリメイクする意味もないしな。

ファーストガンダムの劇場版3部作はリメイクとしては成功だったと思う。
古い映像をすべて新しくして再編集、新作カットはあくまで添える程度で、
それに劇的効果を上げる新しいBGMをつけることにより
観ている側はガンダムに、いやアムロやシャアの心情に
新しい意味付けをしたのではないだろうか。
編集作業の上手さとドラマチックなBGM、さりげない新作カットで
結果的に新しいガンダムを提示することに成功した。

今回はわざわざ「新訳」と告知し、新カットを大胆に導入、
Zの意味付けを変えるとまで富野監督はインタビューで言い放った。

以前、NHKのトーク番組で富野監督は
Zガンダムは本当に苦しい作品だったと語っていた。
プロダクションや視聴率、視聴者の無責任な憶測などの関係で、
登場人物をやむなくバタバタと殺し
最後のほうはもう半ば投げやりで作っていたとも話していた。
その流れでの「新訳」。
富野よ、今度こそ納得のいくZを作るんだよな。
期待するなと言うほうが無理な話だ。
テレビ版から早20年弱。
富野監督は日本のアニメ界では十二分なほど重鎮、大御所のはずだ。


だがこの不手際は何か。

悪の親玉、主役級の扱いに匹敵するパプテマスシロッコや
第2部では間違いなくメインキャラであるはずのフォウ・ムラサメ、
サラ・ザビアロフなどの声優が交代。
サラに限っては第2部と3部で声優が変わるというありえなさ。
メインキャラの声優を交代させることにメリットなど一つもない。
ガンダムというコンテンツに対する様々の権力構造や
それに伴う障害があるのは十分予見できるが、
アニメ界の重鎮富野ならどんなに時間と金をかけようが
それは頑なに守らなきゃならんだろうと思う。
セイラさん役の故井上遥さんをライブラリー出演させた
その根性を他キャラでも見せてほしかった。


台詞を全編通じて録音し直すことはとても重要なことだと思うが、
声優を変えた事による違和感をすべて飲み込んだとしても
台詞を改悪するとはどういうことか。
改悪というのも一番許せないのが登場人物の殉職シーンにおける
そのキャラ最後の台詞を変えているところだ。
もともとテレビ版では、レコアロンドやジェリドメサなど
主要キャラたちの最後の台詞は意味深なものが多い。
それを無難な台詞に差し替えるのはなぜだろうか。
「新訳」と謳うならそこらへんを掘り下げてくれないと。
テレビ版の消化不良の台詞のほうがまだ深みがあっていい。


新しくした映像と古いテレビ版の映像とを組み合わせるという試みは
確かに面白い。
富野監督も嬉々としてこんな試みができるのは
ガンダムというコンテンツだけだと話していたが、
第1部の不評ぶりで路線を変更すべきだった。
確かに2部、3部と追うごとに新しい映像の比率を増やしたのだろうが、
新しい映像があまりにも素晴らしく、新旧の映像の落差が激しすぎたため、
残念だが古い映像を使うことはプラスにはなっていなかった。
その新カットも、どうも観る限り新しいストーリー、
いわゆる新訳を作っているわけでなく、
編集したことによる話のつじつま合わせのために
新カットを作っているようにしか見えなかった。

MSの戦闘シーンをリメイクした映像は、その描線の細かさや
狙撃されて大破したアームの部分の配線の細かさ、
上下左右に動くときのブースターの動きなど、
テレビ版ではありえない全ての部分における緻密な描写は、
もう素晴らしいの一言に尽きる。
だが3部作を通して評価できるのは、戦闘シーンのリメイクのみである。

シャアの政治的側面をバッサリカットし、
カミーユのわがままっぷりを抑え、
主要キャラの一端を担うロザミアを登場させないとか
フォムラサメが登場しないということは
第2部で海に落ちて死んだことになっているのか、とか。
第1部はZの名作シーンのダイジェストみたいだったが、
第3部の今作は逆に名シーンをすべてカットしている。
名シーンを出せばいいってものでもないが、
どうしてこう極端になるか。
初めてZガンダムを観る人は一応辻褄が合っているからこれはこれで
いいのだろうけど、
この映画の男子の観客はかなり高い確率でオリジナルストーリーを把握している
人たちだ。その男子の彼女は嫌々ついて来てるだけだろうけど。
そんなファンたちの映画とオリジナルとの違いのツッコミが、
普通は嬉々として指摘するところだけど、
明らかに落胆のツッコミになってしまう。
見開き1ページにウォーリーがいるかのようにボケが大きいから。
それでもオリジナルファンを唸らせるぐらい作り変えてくれれば
納得もできるが、旧映像を使っている時点でそれすら望めぬ。
新しいZガンダムを見せてくれたというより
尺が短かったから無理やり編集で詰めた、そういう印象しか抱けない。


新訳。
観た感想を言えば、ラストシーン、カミーユが精神崩壊を起こさなかったという
その一点だけだった。
観客のほぼおよそ全員の予想内の結末。
富野監督の理想の結末であればこれはこれでもちろん構わない。
いくつもあるパターンの一つにしかすぎないから。

でもさ、たったそれだけのことを言いたいがために1年もかけて、
3部作にしてまでやることだろうか。
これだけ魅力的なキャラクターがザクザクいる作品はなかなかない。
膨らませれば膨らむところがもっと他にもたくさんあったはずだ。

ラストシーンの新作カット、賞味5分くらいあっただろうか。
ファーストガンダムのキャラを総出演させるサービスカットも含めて
とてもよかったと思う。
あそこに富野監督の思いの全てが詰まっていたと感じた。

どういう形でZガンダムを新しいものにするかについて文句は言わない。
その部分においては作者のものであると思っているから。
ただ、富野監督の熱意が伝わってきたのは
3部作を通じてラスト5分だけだった。残念ながら。


第1部はあれだけプロモーションしたのに
今回の宣伝、広告のおざなりさ。
1部から3部完結まで1年もかからない超ハイペースでの興行。
黙っていても顧客は相当数確保されているコンテンツだ。
1、2年くらい間が空いたって誰も文句は言わんよ。

富野よ
お前もしかしてこのZを早く終わらせたかったのか?
今回のZまでもやっつけ仕事になってないだろうな。

俺はそういう風にしか見えなかったが、
そうでないことを祈る。

劇場出たとき
「俺は富野を尊敬するよ・・」
ってボヤいてた奴もいたから何とも言えんのさ。


「今田耕二、ふかわりょうキャスティング問題」 蝉しぐれに想う2。


「蝉しぐれ」
補足。 


「蝉しぐれ」において
今田耕二とふかわりょうのキャスティングについて
やはり避けて通るわけにいかぬと思い少し補足をしたい。

断っておくが、
それについて良いだの悪いだの言ったところで意味がないことは
重々承知である。
だがあえて言わせてもらいたい。


この二人はバラエティー色があまりに強いために、
真面目な時代劇に出演し、しかも
主役の親友役という重要なファクターに唐突に配役されたら、
誰だってとまどいを通り越して
怒りすら覚えるだろう。


だがこの映画を観ている観客層はきっと普段テレビでバラエティーは見ていないと思うのだ。
それくらい観客の平均年齢が高かった。
今田耕二とふかわりょうがスクリーンに出てきた瞬間、
観客が反応(失笑)したのはごくわずかだったし。俺も含めて。
彼らが芸人であることを大半の観客は知らない。
だからこの配役を不自然だと思わず、
作品のマイナス要因にはなっていない。
むしろ彼らに求められている芸人としてのコミカルな部分を
作品に反映することによってプラス要因にすらなる。


のか?
本当に。


この構造にはとても重大な問題が潜んでいると感じる。

芸人としての固定イメージが最初から存在しない
高齢者層なら問題がないかのように見える。


だが、


主演の染五郎と芸人2人が同じスクリーンで、役柄的にも対等(親友役)
で並んで違和感を感じないのならば
このキャスティングそのものよりも
むしろ染五郎に問題があるのではないか。

今田とふかわが芸人であろうとなかろうと
「役者」としての「安さ」は変わらない。

バラエティーのイメージを引いたとしても
今田とふかわの「役者」としての「軽さ」や「安さ」は
相当の破壊力がある。

その「軽さ」や「安さ」もすべて周囲との相対で決まる。

例えば佐藤浩市と今田だったら?
真田広之とふかわだったら?
同じ場所に立っている想像すらつかない。
こんな悲劇なキャスティングが万が一起こったとしたら
すべての観客がこの配役に関して立ち止まらざるを得ない。

だが染五郎とのキャスティングは
大部分の観客がスルーした。
概ねこの映画の評判がいいこともそれを裏付ける。
「蝉しぐれ」の評論を見比べても彼らを黙殺するか、
アレはちょっとねぇ・・でも映画は最高!みたいなものが多い。


今田、ふかわ問題に触れず、
手放しでこの作品を高く評価するということは
染五郎が彼らと同じ「安さ」であると
暗に認めていると言っていいのではないか。

俺は歌舞伎に関しては全くわからないので
歌舞伎役者としての市川染五郎について何も言えない。
仮に歌舞伎界では至宝の如き存在であるとしておこう。
歌舞伎の天才。
知らないけど。

だが「映画俳優」市川染五郎は決して「高い」役者ではなかった。
しかも劇中で今田、ふかわと同格であることを
証明したことになる。


大丈夫なのか。それで。


個人的な印象としてもそれほど大きな、少なくとも怒りを
感じるほどの違和感はなかった。
映画館に来てまで大画面で今田とふかわのドアップを
見せつけられれば普通カチンとくること然りのはずだが、
(特にふかわりょうのカチン度は3倍増し)
染五郎の意外な「安さ」のお陰で
ふかわりょうに対してすら
アルカイックな笑みすら浮かべながら観れた。

このキャスティングの意図は容易に解釈ができる。
真面目な時代劇に心温まる笑いを。
堅い役者陣に柔軟性を。
今までの時代劇ものとは一線を画して。
そんなところだろうか。

この考えに賛同するにやぶさかでないけれど、
この意図を今田とふかわに託した製作陣に特大ハリセンで
ツッコミを入れてやりたい。
そんな気持ちだ。
いくら染五郎の安さのお陰でバランスが取れたからといって、
ミスキャストであることに変わりはない。
引いては染五郎にすらミスキャスト疑惑が浮上する。
それすら計算に入れての配役なのだろうか。
だとすれば何も言うことはないけどさ。



歌舞伎とか宝塚とかって無条件に強い。
東大出身者を無条件にデキル奴と反応してしまう構造、
アレと一緒だ。
芸能における東大、早稲田、慶応みたいなものか。
歌舞伎出身、宝塚出身なら査定は免除。
無条件に「高い」。
だから染五郎は若手俳優には難しいとされる時代劇映画の主役なのだ。
きっと。

けれども
勘九郎やら染五郎やら海老蔵やらを起用するなら
裏で彼らのプライドを傷つけない程度に査定は必要だと思う。

実は価値の低い役者だったことを暴露するような酷いことは本人のため、
歌舞伎界のためにもよくない。

実は頭の悪い東大生は、バカ大学の学生以下だろう。
そんなことをわざわざ世間に知らしめる必要はない。


プロレス転向した狂言師、和泉元禰を反面教師にせよ。
話違うか。


「流行に乗っただけの手抜き映画」 蝉しぐれに想う。



「蝉しぐれ」

だ。
流行の人情派時代劇モノだ。

この映画
様々の評論やブログでも絶賛の嵐。
だとか。


新橋駅をご利用の方はご存知かと思うが、公開当初(去年の10月くらい)は
染五郎と木村佳乃のドアップ広告が
駅構内にこれでもか、というくらいベタ貼りしてあった。
かなりのPRの力の入れようだったな。

キャッチフレーズが、
「あなたは一生涯かけて人を愛し続けたことはありますか?」
今年最大の話題作!

とかなんとか。


こういう人情派時代劇、他に例を挙げると

「壬生義士伝」
「たそがれ清兵衛」とか。

特にこの2作品は近年の時代劇映画を象徴する双璧だ。


「たそがれ清兵衛」は寅さんシリーズで有名な
山田洋次が初めて時代劇でメガホンをとったのだが、「男はつらいよ」がどう時代劇になるのかと思いきや、
その時代考証の緻密さ、細部の映像へのこだわり、
加えて時代劇では不毛の分野であった
「名もない一般の武士」を題材にするという着眼、当時キワモノでしかなかった宮沢りえを起用するという大胆さ、
かつ見事に彼女を本格派女優へ復活させるという
野村監督顔負けの再生ぶり。
どれをとっても珠玉の作品である。
日本の賞を総ナメにした後、アメリカのアカデミー賞にもノミネートされて、真田広之と山田洋次が赤絨毯で拙い英語を喋っていたのは記憶に新しい。

「壬生義士伝」は新撰組の話でいわば歴史の表舞台、
歴史の教科書の有名人、黒太字事件が数多く登場し、
一般下級武士を題材にした「たそがれ清兵衛」とは
対極に位置する作品のように見えるが、底流にある
武士の魂みたいなものを描いている点では全く同じである。


武士の誇り高さやストイックさ、総じて武士道と呼ばれる
義を重んじる精神性を描く。
慎ましい武士の妻が脇を固めているのもいい。

こういった作品がウケルのは
この利益優先な風潮の世の中で、日本の古典的精神文化の
美しさや「一途」な恋愛とかに心打たれる人間が、
特に年配の方を中心に相当数いるということである。

劇場へ足を運んだ折も

平日の最後の回だったが満員御礼で、ほとんどが年金生活者だろうと思われる方ばかりだった。




日本の風景は美しいと思う。
その時代の権力者や金持ちが作った建造物ではなく、
原風景的な景観は特に心動かされる。
飛騨の「白川郷」。
ただの貧乏村の集落なのに、なぜだろうか熱くなる。
ちなみに「白川郷」は世界遺産。
「尾瀬」とか「白神山地」とか
この壮大な自然の中でなら死んでもいいんじゃないか、とすら思える凄みのある景観だ。

言い過ぎたな。


と、この素晴らしい日本の風景を時代劇映画のオカズにすることはいささかの不満もない。
だが、それはあくまでオカズだ。
「壬生義士伝」でも主人公の中井貴一が故郷の素晴らしさを切々と語るシーンに
オーバーラップさせて田舎の風景が流れる。
中井貴一演じる吉村貫一郎の故郷の思い入れを強く出すことで
田舎の原風景シーンに意味や価値が演出される。
映画のワンシーンを生きたものにするとはこういうことだろう。
それに比べ
「蝉しぐれ」での無意味に垂れ流す風景シーンの多いこと多いこと。
山の渓谷やらどこまでも広がる田園風景やら川のせせらぐ風景
やらが唐突に物語の中に割り込んでくる。
観光客相手に作る地元協賛の風景ビデオでもあるまいし、
とにかく綺麗な風景を流しとけば客がありがたがると
思っているのだろう。
人をバカにした考えだ。

これがこの映画の手抜きその①である。



その②は、
主人公の染五郎が初めて人を斬る場面でのこと。
「初めて人を斬る」
これは武士人生にとって最大の山場である。
初めて人を斬る、ということは初めて真剣での立会いをするということだ。
どこの本で読んだかは忘れてしまったが
武士が初めて真剣勝負をした場合の生存確率は30パーセントないらしい。
ほとんどが敗北、すなわち死ぬということ。
だがこれを乗り切ると飛躍的に次回からの生存率が高くなるそうだ。
つまり真剣勝負は場数をどれだけ踏んだかが
イコール実力になる。
初めての真剣勝負で生き残ることこそ武士としての最初の試練なわけだ。

不運かな染五郎の最初の試練は相棒ふかわりょうと二人で
十数名の刺客と戦うというものだった。
事前に戦いを察知した染五郎は屋敷にある刀をすべてかき集めるよう指示する。


話しは飛ぶが

侍は一本の刀を後生大事に使っていると
思われがちだが、それは間違いだ。
そもそも刀は消耗品である。
人を2,3人斬れば刃こぼれして使い物にならない。
よく時代劇の殺陣でチャリーンチャリーンって刀をぶつからせているが、
実戦ではありえない。
そんなことをしたら刃が一瞬でこぼれてしまう。
正しくは相手の太刀筋をよけて、斬る。
刀同士は決してぶつけない。

だから
十数名と対峙すると知った時、刀をかき集めるという行為は当然といえば当然。
この演出は秀逸だったと思う。
だが初戦の生存率を考えれば、染五郎の状況は絶望的である。
彼の役柄がナントカ流の師範代であるということを差し引いてもだ。

そんな逆境を苦にもせず、
染五郎はバッタバッタと敵を斬りまくる。
初めて人を斬る動揺を垣間見せるが、
それでもかき集めた刀を使い回し刺客を斬り続ける。

いや、

やはり多勢に無勢だ。
染五郎は腕やら足やらを斬られる。
それでもカットが変わると、そんなことはなかったかのように元気に斬り続ける。
ボロボロになった染五郎の前になぜか無傷のボスキャラが登場するのだが、
これもあっさりと倒してしまう。
手負いの獣は強いか。

窮鼠猫を噛むか。

なんでもいいけど。

あちこち斬られてもゴリ押しするって
志村けんのコントで見たような気がするぞ。

初めての実戦にしちゃ染五郎強すぎじゃないか?しかも相手は多勢だぞ?とか
腕や足を斬られてるのにどうして無傷の相手を倒せるんだ?とか
細かい部分を指摘して揚げ足をとってるわけではない。

それぐらい許容範囲だろうという意見も聞こえてきそうだが、
水戸黄門とか暴れん坊将軍なら許すが、
これは見て見ぬフリはできぬ。断じて。
殺陣のリアル感を追求する近年の時代劇の良い流れを止めるな。

頼むから。

揚げ足とっている訳ではなく根本を揺るがす欠陥である。

これが手抜きその②だ。


その③。
これは致命的ともいえるが、
「蝉しぐれ」の舞台が一体どこなのか、さらにいつの時代かすらも説明がないことだ。

冬に大雪が降り積もるシーンがあることから南の方でないことはわかるし、
ちょんまげの武士やお代官様が出てきて、主人公の恋人が大奥に
入るってことだから江戸時代であることは間違いないだろうけど、
なにせ江戸時代は300年もある。
前期、中期、後期に分けてもかなりの時代背景の違いがあるのは
言うまでもない。
一口に「昭和」っていったって昭和初期と平成になる直前を
一括りにできるわけがない。これと一緒だ。しかも
昭和はたったの64年しかない。
もちろん原作の方では明記されているんだろう。
読んでないけど。
映画ではその説明を最後までしてくれなかった。

こんな暴挙があるか。

つまり綺麗な風景流して、上っ面の武士道精神
(この作中では同じ女を生涯思い続けるということらしいが)
を使って映画を作れば客が入ると思ってるのだ。


高年齢層にそういう「古い日本の美しさ」的な時代劇に
根強いマーケットがあることを目ざとく分析して、
流行の時代劇映画で手堅く稼ごうとする東宝の目論見が丸出しである。


これは

大事な屋台骨を骨抜きにして粗利を取ろうとする
「手抜き」建築物よろしく手抜き映画だ。

国会に呼んで証人喚問して責任追及すべきだな。


黒土三男監督は
この映画を撮るために10年もの歳月をかけたと豪語したらしいが、
10年かけてこれなら映画監督なんか辞めるべきだと思うが。

どうだろう。



どうだろうって言ってもなぁ。



「ヒトラーが人間だということに気付く」 ヒトラー最期の12日間を観て想う。



「ヒトラー最期の12日間」を観た。


もう去年の秋くらいの話ですがね。


銀座の劇場に足を運んだ折、上映10分前で満員で入場ができず、
再度来た時は、気合入れて1時間前に整理券をもらいに行った。
だが、驚くことに1時間前ですでに席の半分が埋まっていた。
その人気ぶりはすごかった。


それ以上に驚いたのが客層。
下は女子高生から上は爺さん婆さんまで、
しかも俺の隣に座ったのが外人のシスター。
修道服着てたよ。
参った。
こんなにバラバラの客層の映画は初めてかもしれない。
それほど世代を超えて関心を引くテーマなのだろう。


この映画の注目すべきポイントはドイツが製作した映画であること。

ドイツ人がヒトラーを描くのは長らくタブーとされてきた。

世紀の極悪人といわれるヒトラー。

誰しもそうだが、自分の負の部分、イタイところは見たくないものだ。

日本だったら「東条英機、開戦までの12日間」とか
「天皇陛下、玉音放送までの12日間」みたいなものか。


未だドイツ政府の公式見解は
「ユダヤ人虐殺のホロコーストはすべてナチスのやったことだ」
と他人のフリ。
この映画に関しても一部ドイツメディアでは
「殺人鬼を映画化することに何の意味があるのか」
なんて言ってるらしい。
なかなかヒトラーを直視しない、てかしようとしなかった
ドイツが戦後60周年の節目ということもあり、
ドイツ人自身の手で映画化となった。

ドイツ政府も製作協力をしている。

自国のいわば恥部の部分をどう捉えるのか?

それだけでも一見の価値はあると言える。


ヒトラーが「狼の巣」と呼ばれる地下要塞で
自決を遂げるまでの12日間を
基本的にヒトラーの秘書からの視点で描き(映画の原作はこの秘書の手記)
ヒトラーが何を考え、何を思っているかを秘書が憶測で考える、という切り口だ。
ヒトラーの言動に関しては忠実に史実を追っている。


追い込まれていくヒトラーの狂っていく有り様とか
その周囲にいる将校がそんなヒトラーを制止できず、オロオロしっぱなしの様とか
ナチスを自分のすべてだと思っている将校夫人の堕ちていく様みたいに
とにかく極限状況にいる人間の狂気を
カメラがじっと捉える。
過剰な演出はしない。
とにかく淡々と。


ヒトラーは、周囲にはとても気遣いが細かく、優しい。
タバコ嫌いは有名で、周囲の将校にも体に悪いから禁煙を勧めたり
(禁煙命令を出さないところがすごく意外だったりする。軍人たちはヒトラーの周りで
バカバカ煙草吸ってる)
ヒトラーが若い頃、将来結婚を約束していた女性と死別してしまうのだが
その弔意として生涯肉食をしなくなった、みたいなエピソードも
具体的ではないが、ヒトラーの人間性みたいなところをしっかりと描いている。


自決前夜に神父を呼んで地下要塞で結婚式をするのだが
神父の「あなたはアーリア人ですか?」の問いにヒトラーがちょっとドモったりする場面も
ヒトラーユダヤ人説を汲んでの場面だろう。遊びも忘れない。

ヒトラーの人間描写もさることながら
独裁者特有の苦悩、祖国の存亡をずっしりと一身に負うプレッシャーみたいなものに
徐々に、徐々に、押し潰され狂っていく過程もすごい。

絶対負けられない戦争なのに(1次大戦でドイツは惨敗、ヒトラーも軍人として参戦している)
敗北は濃厚。
ソ連軍はすでに首都ベルリンに侵入。
将校は降伏を進言するのだが、絶対に譲らないヒトラー。
「これ以上は国民の命を守りきれません。」
将校の意見に対し、ヒトラーは
「国民は私に託した。自業自得だ。」
とはねのける。
部屋を後にした将校が叫ぶ。


「殿がご乱心でござる~」


とは言わなかったけど。
しかしすごい事言ってる。
確かにヒトラーはちゃんと選挙で選ばれてるからな。
自業自得っちゃそうだけどさ。



反ナチスとか反戦平和みたいに
特定の政治イデオロギーをフィルターにかけたらこういう映画にはならない。
下手なドキュメントではなくドラマ仕立てというのも功を奏している。

「赤毛のアン」とか手塚治の「アドルフに告ぐ」、
チャップリンの「独裁者」「殺人狂時代」、
馴染みのある作品は反ナチス、反ヒトラーが多い。

これらの作品はヒトラーが権力を振るっていた時期に描かれたもの故に
一定の効力、意味があるが、60年を経た今
このスタンスで(感情的になったり、あいつが悪い!と一方的に罵ったり)
自国の歴史を振り返る意味がない。

そういう意味でこの映画は非常に中立的だったと感じた。
ただ真実を炙り出そうとする真摯な目線や誠実さが感じられた。
戦争、虐殺、独裁者と様々の政治フィルターをかけられるヒトラーだが、
はじめて「人間」ヒトラーを描いた作品を見た。
それがドイツ人の手で作られたことに大きな意義があると思う。

こと映画製作に関しては日本人はまだまだ真似できないだろう。
だって戦後60周年で、「男たちの大和」だもんな。まったく。。

ま、観てないんだけど。


上映終了後、俺の隣にいたシスターが少し涙ぐみながら帰っていった。


泣くポイントはどこにも見当たらなかったけどな。





「欠落が生む豊かさ」 ALWAYS 三丁目の夕日に想う。



「ALWAYS三丁目の夕日」という映画を観てきた。


戦争が終わり13年、昭和33年の東京の下町、自動車修理工場を営む堤真一家族と
その向かいの駄菓子屋を営みながら小説家を目指す吉岡秀隆の
日常を描いた物語だ。


世間はレトロブームだそうな。
古き良き「昭和」の再発見、その延長線上の映画だとも言える。
「昭和」と言えばコレだ!というものがたくさん出てくる。


電化製品三種の神器。
力道山。
テレビに群がる人々。
建設中の東京タワー。
下町。
集団就職。


CG然とした映像はすごく嫌いだけれど、
コントやNHK朝の連ドラに使われるミエミエのセットも嫌いである。
映画でこれをやられるとドン引き間違いないのだが、
昭和30年代を再現するためにはどちらも避けられないと思っていた。
が、
とにかくすごい。
この映画の山崎貴監督はVFXの名手だそうだ。
この「すごい」がVFXなのだろう。
VFXが何なのかはさっぱりわからないけど。
本当に昭和30年代の下町でロケをしているような、とは言わないが
それに近いリアリティは再現している。


昭和に起きた出来事の他にも、
「昭和」を象徴した文化的側面も描かれる。
例えば
「サンタさん」という風習。
イブの夜、幼い子供の寝ている枕元にそっとプレゼントを置くという戦後文化は
未だ続けられているのだろうか。
幼い頃、両親がこういうことをしてくれたが、今の一般家庭でやっているのだろうか。

現在の日本の伝統として続いている気配はない。
俺が親になってもたぶんしないと思うし。

それから
「下町の人々」。
町ぐるみでみんなが顔見知りという状態。
いかにも昔の下町だ、と思わせる光景である。


「子供の家出」という行為もだ。
携帯電話がこれだけ普及した現在、家出という行為はありえない。
さらに時代を遡れば「神隠し」とも呼ばれる行為であるが、
今や子供も携帯を持つ時代である。
もし携帯を持って家出ということであれば、
家出という可能性よりも誘拐の可能性が高いし、
仮に携帯を家に置いてまで家出をするのならば
その子供は相当肝が座っている。俺が親なら誉めてやるだろう。
携帯電話の普及で子供の家出という文化が消滅した、と言っていい。


「小説家を目指す青年」もそうだろう。
これももう古い。とにかく古い。
今や純文学を志すこと自体が風習としてない。
いや、中にはいらっしゃるのだろうが、
綿矢りさとか金原ひとみとかが芥川賞を取る時代である。
小汚いダーク色の和服を着て、何日も風呂に入っていない、寝癖ボサボサの
頭をかきむしり、難しい顔をして原稿にペンを走らせる(たぶんモデルは芥川龍之介)
という小説家のイメージは過去の遺物でしかない。
もはや純文学を志すというよりは、インスピレーションで文章を書く時代だ。
「蛇にピアス」は本屋で立ち読みしたが、
驚くほど内容も文章も薄っぺらい。文字がデカイ。
なんせ斜め読みで30分程度で読めてしまう。
歯ごたえゼロ。
そして俺の感性ゼロ。
趣的には平野啓一郎君の方が好きだな。

あと堤真一演じる「頑固親父」も過去形にすべきだな。


この手の話の評論に決まり文句の如くでてくるのが、
あの頃はよかった、だの
あの頃は決して裕福ではなかったけれど夢や希望があった、とか
貧乏だけれど心は豊かだった、
みたいな偽善的なコピーである。

ちなみにこの映画のコピーは
「携帯もテレビもパソコンもなかったのになんであんなに楽しかったんだろう」
であるが、形を変えた全く同種の偽善コピーなのが面白い。
このコピー、もしくはこの映画の宣伝ポスターを見れば、
直感的な嫌な感じを誰しも抱くはずだ。

そこには、
貧乏=清らか、心が豊か、夢、希望
豊かさ=心が貧しい、人情が薄い、ホリエモン的なもの
という魔法の方程式が存在する。

確かに日本全体が貧しい時代、
今と比べれば豊かさとは対極の位置にある、
それが戦後昭和であることは間違いない。

貧乏であることが幸せなら俺なんていつでも幸せだぞ。
と皮肉の一言も言いたいところだ。
この説教臭さを多くの一般ブログ人も感じ、書き込んでいる。


山崎監督は雑誌取材でこういう過去を賛美するような映画ではない、
と否定しているが、
映画を観れば、明らかにこの種の映画ではないかと言いたい。
お涙頂戴の連続だ。
昨年の「蝉しぐれ」も
昔(江戸時代)はよかったノリで製作された
人をナメた底の浅い映画だった。

しかし、だ。
そんなことは言っても
俺自信、田舎を旅行したり、テレビで貧しい後進国の映像を見たりして、
貧しい中にも豊かに生きる人々や
貧しくとも美しいもの、を見て感動したりすることがある。
偽善は偽善として非難すべきだが、
あのお決まりのコピーや魔法の方程式もいくらかの真実を伝えているのだと思う。
貧しさを補う知恵や、貧しさを克服しようとする上昇志向のエネルギー、
貧しさ故に引き立つ清廉な精神などなど。


それではちょっといい話を2つほど。
花岡信昭氏のブログからの引用です。


三沢基地に当時務めていた某米軍将校が
外出中日本人の子供たちにお菓子を与えて、
基地に帰ってきたところ、ある日本人の婦人が訪ねてきていた。
近在の農家の主婦であった。
「子供があなたからお菓子をもらったが、
ただでいただくわけにはいかない」といって
持ってきた野菜を受け取ってくださいといって
きかなかったそうである。
その米軍将校は、我々はこんな恐るべき国民と戦ったのかと
恐怖心を覚えたそうである。


ある日系米国人が日本被占領中、
親の祖国を見たいと思いGHQ勤務を志願した。
日本に着任した後、
靴を靴磨きの少年に磨いてもらっていた時、
たまたま持っていたジャム付きのパンを与えたところ、
食べずにポケットにしまったそうである。
腹が空いているはずなのに不思議に思い、
「何故食べないのだ」と訊いたところ、
「妹に食べさせる」と答えたそうである。それを聞いてその日系米人は、
「あー、日本は大丈夫だ」と思ったそうである。


こういう話が実際にあったかどうかはわからないが、
事実だとしても、日本人ならばこの米人のような驚きはないはずだ。
このような日本の美徳は日本人なら理解できる行動であると思う。

渡部京二著、「逝しき世の面影」は
幕末に訪れた西洋人の記録を再現し、
当時後進国だった日本の民衆の生活から深い感動を受けた様子を語っている。

前段に挙げた魔法の方程式は非難されて然るべきだし、
そこから派生する偽善も批判されるべきだと思う。
だが、
貧しくあるが故の美しさはある。厳然として。

ライブドアホリエを見て美しいと思う人はまずいない。
あれだけ金持ちで、現代の豊かさの象徴だったはずなのだが。
人間は残念なことに何か欠けているものがないと美しくも強くも
なれないのかもしれない。
日本人がみんな豊かになったらきっと
貧しくあるが故の美しさ、から生まれた日本文化は廃れるのだろう。

だから
「ALWAYS三丁目の夕日」はそういう文化を継承させる意味で
存在意義はあるのかもしれない。
お涙頂戴の流れがベタすぎて鼻につくと言われればそうなのだが、
これだけベタベタにしないと、どうせお前らには
日本人の心の機微なんか感じ取れないだろ、と言われてる気さえしてくる。
考えすぎか。



「石田姉妹に幸あれ」 皇帝ペンギンに想う。


ペンギンと言われて何を連想するだろうか?
かわいい、飛べない、北極、南極、
とかなんとか。
日本人はとりわけペンギンを好む体質らしく
世界の飼われているペンギンの1/3は日本にいるという(ウキペディア調べ)。
そんなことは知らなかったが
確かに動物園にいるペンギンは
キャーキャー言われてる。


ペンギンって
寒い地方に住んでいるのに
寒いイメージを思い起こさせない動物ではないだろうか。
夏はサンサンと降り注ぐ日光を浴びながら
氷の上を歩いて、冬はマフラー巻いて暖房に当たってる。
んなわけはないのだろうが。
イメージで。



というわけで
知っているようでよく知らない
ペンギンのベールを剥がしてくれるのがこの映画だ。
日本人が見慣れているペンギンは
フンボルトペンギンという南アメリカに生息する種
らしく暑さに耐久性を持つため動物園での飼育がしやすいという。
対して、極寒の南極に生息するペンギンがエンペラーペンギン。
皇帝ペンギンである。

この映画はGAGAの配給なのだが、
俺の知っている中では久しぶりのヒットだろう。
GAGAがヒット作を出していないというわけではなく、
あくまで自分好みってことだが。

キルビル、華氏911、えびボクサー、カニレスラー、
GAGAのいわゆるヒット作は突飛な作品が多い。
もちろん突飛作品ばかり配給しているわけでもないらしいんだが
いわゆる目玉商品的なものは、GAGA風味を醸す。
(アメリみたいな事故もあるけど)
ま、それはいいんだけど
GAGA好みの映画ってなんか馴染めんのだよ。個人的に。



話がそれたので元に戻そう。



突然だが、
石田ひかりという女優をご存知か?
いや、憶えていますか?というのが正しいか。

美人の観念の逆ベクトルだったにもかかわらず
トレンディドラマの一時代を築いた人だ。
いや、逆ベクトルとは言い過ぎだな。
流行の顔ってのあるしな。
鈴木保奈美も美人て言われてたし。

最近ではめっきりとブラウン管で姿を観ない。

たしか最後に観たのは「サラスパ」のCMだった。
これも懐かしい。
サラダ・スパゲッティの略で、今や死語だろう。
スーパーで見なくなって久しい絶滅種だ。

この時見た石田ひかりが、
ヤケクソみたいな虎刈り頭で現れたのを強烈に憶えている。

「あすなろ白書」から数年。
もう何をどうしたいのかわからない石田ひかりを見て
しんみりとしたものだ。


「皇帝ペンギン」は全編、南極に住むエンペラーペンギンの
辛く、苦しい出産のドキュメンタリーなのだが
父親、母親、子供役の3人の声優が吹き替えをする。
その父親役が大沢たかお、
母親役が石田ゆり子、
子役は天才子役と言われている神木隆之介(妖怪大戦争の主役の子)。
もうこのキャスティングだけで観る気が失せる。
事前に知っていたら絶対に観ていない。


石田ゆり子には何度もジブリ映画で煮え湯を飲まされている。
「もののけ姫」では冒頭アシタカの妹役(?)かどうか忘れたが
出演していた。
輪郭のないフニャフニャ声。
のくせに「石田ゆり子」だけは主張する声質。
冒頭10分でアシタカの妹が消えてくれたので
本当に助かった。
なぜこの人に声優のオファーがあるのか理解に苦しむのだが、
「平成たぬき合戦ぽんぽこ」では
主人公の彼女役で結構メインポジションを張っていた。
で、
主人公の狸が野々村真。

字面だけで笑える。
エンディングロールでウケを狙いたいのか。
映画自体はとてもよかったので残念でならなかった。

さらに父ペンギン。
ペンギンの顔が大沢たかおにしか見えない。
野々村真と50歩100歩のひどい吹き替えだったことは
言うまでもない。
(タヌキが野々村真に見えるのは意外と違和感はないのだが)
役者としてどういうポジションの人なのかよく知らないが、
付け焼刃で吹き替えをやって、
出演もしていないのに画面に顔がにじみ出てくるのは不愉快極まりない。


で、
ゆり子だ。

どんなに映画が良くてもぶち壊しは免れない。


だが、しかし。


今回は違う。

ウマイ、のだ。ゆり子が。

一瞬聞いてゆり子とわかる声だが、
すぐにそれは消える。
メリハリのあるセリフ回し。
違和感のない吹き替えが心地よく響いてくる。
ゆり子のレベルアップは間違いなかった。
大沢たかおを引いたとしても
ゆり子の貢献で映画のクオリティは保たれたと言ってもいい。
なぜこんなに誉めてるんだ、俺は。


映画の内容とゆり子の声優としてのレベルアップに
満足して最後のエンディングロールを眺めていた。
そこにとんでもないものを目にしたのだ。


吹き替えキャストに
石田ひかり

だ。


やられた。

妹か、声が似てるはずだ。


なるほど、こんなところに棲息していたのか。ひかり。
しぶとく仕事を増やしているようだが、
なかなか才能あるぞ、ひかり。


ひかりの才能に幸あれ。




「真性いじめられっ子 小飼弾」 ライブドアに想う2のコメントに対するお詫びと反論


まず、画像の不正利用についてのお詫び。
これに関してはご指摘の通りで、自分の不注意によるものです。
言い訳はしません。
ごめんなさい。
画像元のサイトにお詫びのコメントを載せました。
西尾様、本当にごめんなさい。
ご指摘のコメントありがとうございます。
これからブログを続ける上で、勉強になりました。



さて、「真性いじめられっ子 小飼弾」 ライブドアに想う2
に対して
以下のようなコメントがついたんで反論を。


①だらだらかいてますけど、決して頭いいようには見えないですよ。
②つまんない思い出話はWindowsのメモ帳使って書くだけにとどめれば?
③写真パクッて著作権侵害なの自覚あんの?
④私に言わせれば弾さんの生き方の方がよっぽどかっこよく見えますけど。
⑤あ、nobodyってことは「なにものでもない」んですね。
⑥これって釣りですか?失礼しました



①について
俺は某三流私立大を一浪して入学後、挙句に中退、「頭がいい」という
ポジションから対極の位置にある人間だ。
自分が頭がいいなんて小指の爪の先ほども思っとらんよ。
そもそも、だらだら書くことがどうして頭がいいように演出することなのか
わからん。文章が短いとバカなのか。



②について
なにぶん初心者なので不確かだけれど、
ブログってのは基本的に個人の日記を書くところだと聞いてるが。
日記ってのは個人の思い出話のことではないのか。
それとも昨日今日の話は許されて、幼少の頃の思い出話はメモ帳行きなのか?
つまる思い出話は許されて、つまらない思い出話はメモ帳行きか?
つまるかつまらんかは読んでる人の自由だから任せるけどさ、
何を書くかは俺の自由だろ。



③マジでごめんなさい。



④はじめに断っておくが、俺は小飼氏のテレビでの発言や
そこから予想される考え方及び思想的なものに全く興味がない。


興味があるのは、テレビに写し出されている「現象」だけだ。

テレビに変な奴が出てる、と認識してその原因を出来る限り言葉にしたまで。
小飼氏の生き方がかっこいいとか本当はテレビ出演のギャラが幾らだとか
そんなこと知ったこっちゃない。
一視聴者の俺がそこまで読み取ってやる必要はない。
カンニング竹山は本当はいい人なんだよ、と同レベルの話だと思うが。

テレビの視聴者にそう思われてるぞ、という所感にしか過ぎない。
ま、今回書いたように思ってるのは俺だけかもしれんから気にしなくてもいいけど。



⑤⑥匿名で他人の事を書くのは卑怯なのかもしれないスね。

それについて思うところはあります。
って、nobodyってなんすか??
よくブログの機能を理解してないのでわかりません。
やっぱ頭悪いっす、俺。



小飼氏本人とおぼしき方からもTBしていただいたようで、大変に光栄です。
いや、本心で。
そんなわけで、今回は敬称をつけました。

本人はずいぶん立腹しているようですが。


周辺のうるさい人間は別だが、
本人に不愉快な思いをさせてまで書く意義があるかと言われると、
単なる趣味だし、考えるところがあります。


反省はしないけど。




「真性いじめられっ子 小飼弾」 ライブドアに想う2


なんなんだ、こいつは。
ライブドアの前身、オンザエッジの役員と称する
小飼弾という男である。

ライブドアホリエが逮捕された直後から
テレ朝を中心にワイドショーやら討論番組に
出まくっていた。

いじめられっ子をそのまま大人にしたような風貌、
人をナメた喋り方、
相手がトークに食いついてくると嬉々として
調子に乗るその性根。
かまってくれると喜ぶ子供か。
こいつは汚いオヤジだが。



昔、こいつによく似た奴がいた。
小学生の頃の話だ。
同じクラスにいたいじめられっ子だ。
まあどんなクラスにも一人や二人はいる典型的ないじめられっ子だ。


その話をする前に一言。
俺は、いじめられっ子と積極的に仲良くしていた。

偽善的行為とかではなく、そいつの本質を見ずに
(極端に暗いとか外見が変とか運動オンチとか)
不当にいじめられてるのは間違いだと思っていたから。
人間として面白くも何ともない いじめっ子たちよりも
いじめられっ子の方がよっぽど面白い奴が多い。
だから好んでいじめられっ子と付き合った。


しかし、今回書くクラスメートと親交はなかった。


奴は着替えをするのは3日に一回、
風呂は一週間に一回、という生活習慣。
とにかく奴の半径5メートルはすごい臭いなのだ。
生ゴミの腐った臭い。
席替えのシーズンになると、彼の隣になるのは誰だと
クラス中の女子がビクビクしていたものだ。

外見どうこう言う前に不潔なのである。


奴の事をよく表すエピソードがある。
子供にとって毎年心躍る恒例行事だが、
教育実習生と言う名の大学生が
我がクラスにやって来た時の話だ。
今年は女子大生。
特に綺麗でもブサイクでもない女子大生だったと思う。
ただ優しい人オーラはビンビン放っていた。
いいかげん見飽きている担任以外の若い先生というのは
小学生にとって束の間の心のオアシスとなる。

生徒がたとえ異臭を放ついじめられっ子だとしても
分け隔てなく生徒と接するのが教師の使命。
その教育実習生は奴にも当然優しく接した。
それに気を良くした奴は
毎日その先生にベッタリになった。

そして教育実習生の最大の山場である受け持ち授業の日が来た。
大勢の先生たちが見守る中、
実習生が実際の授業を行うのである。
言わば実習の最終テスト。

その日、先生は随分気合が入っていたのか、
黒板に字を書く時間を削りたかったらしく
大きな張り紙にあらかじめ黒板に書く内容を書いてきたのだ。
次々と大きな張り紙を広げつつ授業を進める先生。
調子がいい。
がんばれ、俺は心の中で小さく応援していた。
その時、今まで授業中に発言など皆無だった奴が突然こう言った。
「あれえ、あの漢字間違ってるよ」
確かに漢字のミスがある。
真面目で優しい先生は、奴に
「ごめんなさいね、間違ってたわ」
と真摯に謝った。
それで乗り切れる、小さなミスだ。
そう思った。
だが、調子に乗った奴は立て続けにその漢字ミスを指摘し続けたのだ。
その漢字は、今はもう忘れてしまったのだが、
その大きな張り紙に何度も出てくる常用漢字だった。
黒板でなかったのが大きな痛手となった。
消せない、直せない。
誤字のまま授業を進めるしかない。

みんな気付いていた。
だが、大勢の先生が教室の後ろで見守っているその空間は
小学生でもわかる緊張の空気。
奴以外、みんな見て見ぬ振りをしていたのだ。
だが、自分にだけ優しく謝ってくれる先生に気を良くした奴は
嬉々として目に付く誤った漢字を指摘しまくった。
「あれえ、これも間違ってるよお」
「先生、これもだ、アハハハハ」
どんどん奴だけハイテンションになっていく。


先生はその度に半泣きになって謝っていた。

授業が終わったその直後、
クラスの担任がまさしく鬼のような形相になって
奴の席に歩み寄り、
そして何も言わずに睨み続けたのである。


誤字を指摘することが悪いことではない。
その担任も日頃から
「間違えていることがあったらいつでも遠慮なく言いなさい」
と言っている手前、怒るに怒れない。
小学生に空気を読めというのも変だろう。
だからずっと睨み続けたのである。
緊張の糸が解けた実習生の先生は
顔を真っ赤にして泣き出してしまった。


こういった人間はクラス中から嫌われ、いじめられて然りなのだ。
奴に感じた嫌悪感は今でも鮮明に覚えている。


そしてこの嫌悪感が似ているのだ、小飼弾。

番組側がその異物感を了承して、
出演させていることは十分わかる。
小泉政治、改革路線、
小飼弾の異質な空気はそのイメージを連想させたいのだろう。
その空気の読めない感じも反体制、改革路線。なのか。

番組内の異物感を醸すキャスティングは
絶妙、とか斬新、とか評価されるものだけれど、
小飼弾に限ってはその許容キャパを遥かに超え、キモイ。


「朝まで生テレビ」で、指を伸ばした手を口に当てて
ヒソヒソ話をする要領で
自分でこれはキワドイ、と思っている発言をする。
なんだそれは。意味わからんよ。面白くねーよ。


メディアがホリエを持ち上げた責任をこれだけ問われている今、
小飼弾こそなぜ無審査でテレビに出れるのか。



かのホリエは
「金で買えないものはない」
と豪語した。
そして先日のインサイダー取引容疑。
自分の逮捕が決定し、株が暴落することを予見したホリエは
自分の保有株の全てを売却し、40億の利益を得たそうだ。
なんという愚劣な行為だろう。
昨年の株主総会で配当見送りを決定した時、
涙を流しながら弁解したが、
もちろんパフォーマンスであることはわかりきっているが、
数パーセントは本当の気持ちだろうと信じていた。
会社をデカくするため、
さらなる高みを目指すため、
株主は今だけ痛みに耐えてくれ、
近いうちに必ず還元するからさ。
そのためには多少の粉飾決算や風説の流布など
汚いことも仕方ないだろう。
ライブドア事件に関しては少なからず好意的に見ていた。

今回でその最後の牙城すら崩れた。
結局テメーだけよければ良かったのである。


「自分の株は自分のもの、
(ライブドアに投資した)他人の株も自分のもの」


お前はジャイアンか。

金のためならなんでもする、なんて手垢まみれのフレーズが
そのまんま当てはまる。

金のためならどんなテレビ出演もする、のか。
小飼弾。
お前をそんな風にしか捉えられんぞ。



「強い思想を持ったヒーロー」バットマンビギンズに想う。




バットマンシリーズは今作で5作目を数える。
「バットマン ビギンズ」は
シリーズ1作目よりもさらに時系列を遡り
幼少の頃からバットマンになるまでの壮絶な物語をこの映画では見せてくれる。


幼少の折、両親を殺害され、青年になるまで苦悶の日々を送り、
遂にはヒマラヤで修行、
バットマンとしてゴッサムシティを守るようになるまでの話だ。

アメリカンコミックやムービーのヒーローといえば
スーパーマン、スパイダーマン、スポーン、マスク、etc
といろいろ挙げられるが
アメリカのいわゆるヒーローモノというのは
主人公がとにかく強い。
言わずもがな、そうでなくては敵を倒せないのだが。

ヒーローというのは人間離れした特殊能力を
持っている場合が多い。
例えば
手からクモの糸が出せる
超人のごとき腕力がある
かめはめ波が打てる
悪魔の実を食べて特殊能力を身につける
などなど。

強い、というのは大前提で話は進められる。

だがバットマンは違う。
主人公ブルースウェインは普通の生身の人間だ。
特別な能力は持っていない。
加えて、修行に出る前までは過去の心のトラウマ(両親を殺されたこと)で
ウジウジとして彼女に平手で殴られるような、か弱い青年だった。
人と違うことと言えば実業家であり町一番の金持ちであることくらいだ。
(桁違いの金持ちである)

何ら能力を持たないただの金持ちのボンボンがいかにバットマンになっていったか。
いかに強い能力を身につけ、
そして両親を殺害されたトラウマを克服したのか。

その過程を今作では
一つ一つ丁寧にバットマンのすべてを解剖するかのように
映像に投影している。


では
生身の人間が英雄になるための
「強さ」
それは何か?


「肉体的な力」と「精神的な力」だ。


この二つを修得していく過程が今作の主軸でもある。


「肉体的な力」とは、つまり具体的な攻撃力のことだ。
主人公ブルース・ウエインはヒマラヤ山頂で忍術を会得する。
なんとバットマンは忍者の修行をしていたことが発覚する。

そう言われてみるとバットマンの戦い方は
とても古典的な忍者っぽい。

バットマンロゴの手裏剣、
敵に囲まれると煙玉を使って姿をくらます、など
忍者らしい武器や戦闘を積み重ね、
その都度改良を加え、試行錯誤の末に生み出される
バットマンおなじみの武器や戦闘方法。

忍者の戦い方を実践するために
バットマンの武器は開発される。

劇中
バットスーツやマントの素材(なぜ空を飛べるかがわかる)、
加えてマスクの発注先まで解説する細かさ(ちなみに上海のメーカー)。

バットマンが好きな人にはへぇ~の連発だろう。

さらに
バットモービルの原型バージョンのパトカーとのカーアクションは圧巻だ。
バットモービルを実際に高速で走らせるなぞ
今までのシリーズではありえなかったことだ。

このようにバットマンの具体的な強さの元になる戦闘方法、
武器、小道具、乗り物などが事細かく描写されている。


次に
「精神的な強さ」だが

それは特に力を持った人間が、その力をどう使うか、
もしくは何に使うか、ということだろう。

これは作品上最も比重を置かれているポイントであった。
生身の人間を英雄に昇華させるためには
必要不可欠な要素なのだろう。

強い力を持った人間はいとも簡単に
エゴイスティックになる。
スターウォーズ風に言えばダークサイドに
堕ちてしまうということだ。
だからジェダイは厳しい戒律を作って
フォースの力を縛っていた。

同じことはバットマンにも言える。
強い思想を持たねば、正義の味方は長続きしない。

「正義と復讐の違い」

これが今作のテーマになっていると思われる。

バットマンが悪人を目の前にした時に、両親の殺害に対する
復讐心が剥き出しになってしまうことが多々あるのだが、
それを執事アルフレッドやヒロインがいつも思いとどまらせる。
その度、バットマンはゴッサムシティを守るという大儀を
思い返すわけである。


ヒーロー物は
悪役の存在なしには成立しえないのだが
ヒーローを引き立たせるため
悪役たちは相当にデフォルメされる。
バットマンシリーズでも
ジョーカーやペンギン、キャットウーマン、シュワちゃんなど
必ずデフォルメされたわかりやすい悪役が
登場してきた。
それは物語をわかり易くするためでもあるし
悪や正義の定義を語りだしてしまうと
劇画コミックの良さを消してしまうという理由もある。

だが今作は主人公の精神的な成長と
バットマンになる上での哲学などを浮き彫りにさせるため
悪役の渡部謙とリーアムニーソンに
過剰なデフォルメを施すことはしなかった。
さらにリーアムニーソン率いる悪の組織も、
ゴッサムシティのような腐敗した汚職まみれの街は
一度消し去り、浄化されなければならない、と
町中に爆弾を設置して吹っ飛ばしてしまおうとする。
彼らの思想の有効性はさておき
彼らは彼らなりの正義で行動を起こしている。
演出上、悪役にもひねりを加えているのがわかる。

さらにバットマンとしてまだまだ未熟な主人公は
敵に大敗北を喫し、九死のピンチを何度か経験するのだが
この時、主人公は幼少の頃受けた父の言葉

「なぜ転げ落ちたか?それは這い上がるためだ」

この言葉をリフレインし、幾たびも不死鳥の如く復活する。
バットマンのメンタル面の強さを表している。


バットマンという英雄を徹底したリアリズムの目線で
表現している。


劇画コミックをリアリズムで分解するとこうなるのか、と
きっと驚くと思う。個人的には結構好きだし、
ネットのブロガー筋にもシリーズで一番おもしろい、と
絶賛されている。

リアリズムを追求するというのは口で言うのは簡単だが
リアルに描写すればするほど、尺が長くなるというリスク面がある。
だが、これだけの情報量を短い時間でテンポよく描写するあたりの
監督の力量は間違いなくすごい。

実写版なのにマンガを見ているような錯覚を起こさせる
ティム・バートン監督のバットマン(1、2作目)も好きだが、
今作は、従来のバットマンに飽きた人にはお薦めの映画だ。


「ホリエ ロン毛ショック」ライブドアに想う。




最近たるやショックだらけである。
ジェイコムショックやら姉歯ショックやら
ライブドアショックやらなんやら。

これらの事件で俺の生活は何一つショックなんか受けなかったわけだが、
最近のニュースで一番ショックだったのは、ライブドアホリエが昔
ロン毛だったことだ。
ライブドアホリエの過去映像オンパレードの中、
この映像はかなりショックだったぞ。

そのショッキングなロン毛の映像には1999年のスーパーが記載されていた。


そんなこた俺だって言いたくないが、お前、それはもしかして、
キムタク意識か。


ホリエが選挙に立候補した時、こんなことを言っていた。
「僕は社長のイメージを壊したんですよ、かっこいい社長というイメージを作りました。
だから今度は政治家のイメージを変えたい。かっこいい政治家という
イメージを作りたいんです。」


お前が社長になろうが、政治家になろうが知ったことではない。
好きにすればいいが、
お前がかっこいいと言うことはこちら側の同意が必要であろう。
俺の美醜感覚が一般レベルであるとすれば
日本国民は誰もお前をかっこいいなどと思ってない。


そうかそうか、そのかっこいいは
貯金か?ヒルズか??自家用ジェット機か???
即物的なかっこよさなら今すぐ認めてやるがな。
モノに罪はない。

テレビを通じて「俺ってかっこいいだろ」と見下ろしてくるホリエ。
この腹の底から沸いてくる怒りをどこに向ければいいのやら。

百歩譲ってこれは選挙のパフォーマンスなんだ、と理解してその怒りを鞘に収めた。
そうだ、わざとだ。
このツラで本気でそう思ってるはずがない。
そうだ、もしかして言わされてるかもしれない。
この体型でこんなこと言わされるなんて、
むしろかわいそうだ。
政治的駆け引き。
何の駆け引きだ。
ああ~かわいそうなホリエ。


が、
今回のロン毛ショックだ。

それまで(キムタク出現前)の男のロン毛感は
学生運動やってるような反体制世代がするような
ヘアスタイルだった。
いわゆるフォーク世代。
時代は流れ、ロン毛はもはやダサイの象徴になっていった。
そこへ彗星の如く現れたのがキムタクだ。
俺の知る限りでは、キムタクのロン毛が広く世間に認知されたのは
「若者のすべて」というドラマだったと思う。
男のロン毛感の再評価がされる。

だからなんだよ、ロン毛感って。

当初は流行りでロン毛人口が増えた時期があったが、
すぐに沈静化した。

それはジャニーズで言えば
長瀬智也に受け継がれたわけだが、
やはり長瀬でなければ耐えられないのだ。
元々のモデルがキムタクなために
ロン毛自体に見えざる高い壁ができてしまった。
本当にかっこいい奴がやらないと似合わない。それが男のロン毛。


その壁をあっさりと越えたホリエ。

その映像のホリエは
職人が無精で髪を伸ばしっぱなしにしているとは、
明らかに違うロン毛だ。
小綺麗にセットされたヘアスタイルは
今ほどの厚かましさはないものの明らかに
俺ってかっこいいだろオーラを放っている。

ホリエのロン毛が全てを物語る。
選挙の時のあのセリフは政治的駆け引きでなかったことが
証明されてしまった。
本気だった。残念ながら。

あの時振り上げた拳を下ろす場所はもうどこにもなくなってしまった。