村上春樹『女のいない男たち』


村上春樹の小説は読むまいと決めて29年生きてきた。

だから、これまでに読んだことのある村上春樹の文章は『ティファニーで朝食を』の翻訳だけだ(それだってそこに至るまでには色々な理由があったのだけれど、たぶんここに書くべきことではない)。


そうは言っても、そのような見方によっては他律的とさえ言える拘りはーー1冊読み通してみた身として、村上春樹がこれを男性にありきたりなものと見るのかそれとも女性的であると言うのかにはいささかの関心があるーーきっと「僕の抱えている問題のひとつだ」(「イエスタデイ」)。


そのようなわけで、賞を取ったという実写映画に誘われたのを口実に重い腰を上げて一冊手に取ってみたわけである。

もちろん本当は鑑賞の時間が楽しみで、学園祭の前日の浮かれ気分を水増ししようとしているのかもしれないのだが。


しかしなるほど読んでみると自身の奥底から湧き出る直感は、直観は、直諫は、やはり馬鹿にできるもではない。

それは要するに、恐らく村上春樹の本をもう一度読むことはないだろうという印象を新たにしたということである。

少なくとも今の時点では、ということだが。



書名に違わず「女のいない男たち」が描かれる6作の短編集である。

あるものの、それは字義通りの「女のいない」男たちではない。

各編の「男」たちは、作中でsexをするか、していたか、そうでなくともしようと思いさえすればいつでもできる状況にある。


「しかし羽原にとって何よりつらいのは、性行為そのものよりはむしろ、彼女たちと親密な時間を共有することができなくなってしまうことかもしれない」(「シェエラザード」)


親密な時間を失い続ける男たちを描く、つまり親密な時間を確信して止まない人々を描くのが彼の作家性であることについてのナイーブなイメージは、ここにおいて実体化する。


そして、それは私の問題ではない。

たぶん信じる神が、信じる人が違うからだ。


「たぶん(僕はたぶんという言葉を使いすぎている。たぶん)」(「女のいない男たち」)