カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』


反出生主義者として、飲み込むのがとても難しい小説だった。


核心部分も含むあらすじは以下の通りだ。



キャシーは自身が育った全寮制の学校のような施設であるヘールシャムを回想する。極端に親の匂いを欠く子供たちが、少し「進んだ」、つまり温情主義ではあるものの必ず論理武装された形での教育を受ける施設だった。彼らの恐らく一円にもならないように見える絵を厳かに選別し引き取る「マダム」のような異常な窓口のみが外界との接点となるような閉鎖性も異様さを強調している。


少しずつ話が進んでいき彼らのそれなりに人間的な成長と交流が描かれる中で同時に情報が小出しにされていき、どうやら彼らが臓器移植のために「ストック」されたクローンであることが分かってくる。


大人になってヘールシャムを出た彼らが移植に関わっていく中で、愛し合う2人には移植への猶予が与えられると聞きマダムを訪ね、ヘールシャムとその閉鎖の真相が語られる。すなわち、ヘールシャムは臓器移植用クローンに「良い教育」を与える「先進的」な活動の場であったが、デザイナーベイビーを恐れる世間によりクローン自体のイメージが悪化し、そうした活動は続けられなくなったというのだった。




回想をこれほど上手く書く作家を挙げるのは難しいというくらい、筆者の回想には心を締め付けるものがある。自然とセピアがかったイメージが浮かぶのだ。


「突然、わたしは何を言っていいかわからなくなり、ただすわって、クローバーを摘みつづけました。トミーの視線を感じながら、顔を上げられませんでした。しばらくそうやっていたと思います。やがて、邪魔が入りました。さっきの二人が戻ってきたのでしたか、それとも誰かが通りかかり、わたしたちを見て、一緒にすわり込んだのでしたか……。いずれにせよ、二人だけの話は終わり、わたしは寮に帰りました」


こうして丁寧に積み上げたディテールが、最後のマダムへの訪問に際してのカタルシスを保証する落差になっている。



しかし、考えるのは「これは本当にクローンの話として描かれるものだったのか?」ということだ。


臓器移植用のクローンとして「ポシブル」(遺伝上の本人)のために存在し、生きるということの絶望が、平面ではヘールシャムの設定のグロテスクさによってもたらされつつ、回想の温かみがそれに立体感を与えている。それは分かる。


しかし、「親」によって「親」の人生の不足(それは自身の人生のやり直しだったり、疎外された生きる意味だったり、即物的・社会的な常識や信用だったりする)を補う、移植/収奪!する道具として本人の意思とは無関係に産み落とされるという面において、通常の出産と本書のクローンに大きな差はない。


「(私たちの先進的な教育を受けたのだから)あなたたちはそれでも幸せな方なのだ」と開き直るエミリ先生の傲慢に漂う腐臭は、結局のところ他者を支配しないでは生きられない「普通」の人々の出産幻想のそれであり、クローンに焦点をずらしていく書き振りは、いやらしくも憎くも感じられるのだった。



「ルーシーは理想主義的でした。それ自体悪いことではありませんが、現実を知りませんでした。わたしたちは生徒に何かを──誰からも奪い去られることのない何かを──与えようとして、それができたと思っています。どうやって? 主として保護することでです。保護することがヘールシャムの運営理念でした」