トロツキー『永続革命論』

『ロシア革命について』と比べると、収録されている文は些か末梢的で、特定の人物(議論そのものより!)を論難するものであって、いわゆる「社会主義的」な論争であるのだなと感じさせられる。

ラデツキーを執拗に批判することもそうだが、何よりレーニンとの意見の一致を正しさの根拠にするのは理論家の名が泣くだろう。そういう土壌は別に共産主義の問題ではなく、権威主義がなぜ持ち込まれているかを考えなければいけないのであって、ロシア特有の問題ではなく日本でもそういう印象があるのが不思議だ。無自覚な「保守」主義者がこの点をもって批判するのは理解し難いが。




内容としては永続革命が農民を無視するものではなく、ただ農民は労働者と同様に革命政党(に限らず独立した政治勢力)を形成できないのであって、革命の主導権は常に労働者にあり、しかし農民もそこに組み込まれていくということを繰り返し述べている。
ぱっと思い浮かぶのはグレンジャリズムの末路だったが、トロツキーとしてはロシアやイギリスの歴史からそれを引き出している。

また、経済は不可逆に国際化しており、そうした下部構造を見れば革命もまた一国では完成し得ないこと(この点が最もトロツキーに対する評価を高めている)も主張の一つだ。

「一国の枠内での社会主義革命の完成は考えられない。ブルジョア社会が危機に陥った基本的理由の一つは、それによって創出された生産力が国民国家の枠ともはや両立しえなくなっているという点にある。このことから、一方では帝国主義戦争が、他方ではブルジョア的ヨーロッパ合衆国のユートピアが生まれる」という記述は、植民地を解放したと言いながら明らかに過去の遺産で生活をしている今のEU内の強国を想起させずにはおかない。








現代にはプチブル=農民/土地のような安定した資産を持つ階層は存在せず、一部の資本家を除いて全ての人間が「労働者」(というより無産市民)だ。また、仮に二段階革命論者であっても多くの先進国で一段階目が終わっていることに疑問はないだろう。


「そのために、小ブルジョアジー(農民)の上層は、あらゆる決定的な瞬間、とりわけ戦争や革命において、大ブルジョアジーとともに進み、下層はプロレタリアートとともに進むのであり、したがって中間層はこの両極のどちらかを選択せざるをえなくなる。ケレンスキー体制とボリシェヴィキ権力とのあいだには、あるいは国民党とプロレタリア独裁とのあいだには、いかなる中間的体制も、すなわちいかなる『労働者と農民の民主主義独裁』も存在しないし、また存在しえない」

それでもまだトロツキーの文章に力があるのは、結局我々が「ケレンスキー体制」の下に生きていることの、小ブルジョワジーどころか上層労働者が大ブルジョワジーに尻尾を振っているのを目の当たりにしていることの証だ。そういう湧き立つ言葉を持っている。
(僅かに残った「農民」がやはり自民党の基盤と言われているのもよく当たっていてグロテスクだが)


一方で、革命が自らの起動力では永続しなかった。それはあくまで蜂起の技術者であったトロツキーに問うべきことではないのかもしれない。