十月革命100周年もの。



トロツキーという名前にはロマンがある。それは未完ゆえに(可能性として)成功した共産主義を体現し、そこに新左翼の夢があった。
なるほどスターリン派への反論として語られる党のあり方は、今の私たちが思い浮かべるソ連(あるいは社会主義的官僚制)とは全く違う。社会主義が国家の(一時的な)支配によって社会を共産主義に対して準備するという試みが必ず反作用を持つことを、党が必ず変わってしまうことを見抜いている。「人の顔をした社会主義」というトロツキーの言葉はその点において少なくともスターリンを経たソ連とは違う夢を見せてくれる。
また、一国社会主義批判の内に語られる資本主義経済の世界性はほとんど世界システム論であって、ウォーラーステインが世界を席巻するまで死後40年はかかったことを思えば、十月革命を見通したという理論家としての切れ味は確かに彼を世界一の革命家たらしめる蜂起の技術に匹敵する。


けれど、後知恵でしかないけれど、やはりトロツキーを語る時にクランシュタットを避けては倒れないのだろう。その臆面のなさは、人間の顔をしているが故の残忍さを併せ持つ。

「ではクロンシュタットの反乱は?」
「どの党の道徳も、究極的には、その党が代表している歴史的利害から生じる。ボリシェヴィズムの道徳には、自己犠牲、無私、勇気が含まれ、また、あらゆる見かけ倒しのものや偽りのものに対する軽蔑が含まれる。これは人間性の最良の資質だ! こうしたボリシェヴィズムの道徳は、被抑圧者に奉仕する上での革命的非妥協性から生じている」



2021年のここで、暴力革命の夢を見るには素面ではいられない。