信号待ちの間、ソヌが振り返ると、ハジンは、うとうとしているソヒョンの背を、トントンと、規則的に優しく調子をとりながら、寝かしつけているところだった。

 

ハジンとソヒョンの二人はいつも仲良しだが、ソヒョンがこのように、無防備なほど甘えた様子を見るのは初めてで、二人はまるで一体の聖母子像のように見えた。このごろ、急に背が伸びたソヒョンを抱いていると、ハジンは普段よりもっと華奢に見えた。

 

 

 

 

ソヌは今までの彼女との関係に思いを馳せた。

 

ハジンとは、最初は、どうなるかと案じられるような出会いだった。

 

あのときは、ジョンヒが倒れたときのことと重なったのか、初対面のハジンを助けることに、ひどく切迫したものを感じてしまった。

 

その後、まるで昼寝でもしていたかのように

 

『どなたですか?』

 

と言って大きな目を開けた彼女に、なぜか、急に腹立たしい思いがして、いらいらした態度を取ってしまったのである。

 

そして、急に、彼女が身近な存在になった。

 

あのとき、ソヌの心の中に、何かが入り込んだような、不思議な感覚がした。

 

のちに恋愛することになる相手との、出会いのときの第一印象や、そのとき抱くある種の感覚を、人は不思議と記憶に留めているものだ、と何かの本で読んだことがある。

 

 

線も細く、今どきのダイエット志向の女の子なのかと思ったが、プロジェクトが動き出すと、彼女は浮ついたところもなく、思いのほか頑張り屋であることが分かった。本社の上司やソヌが投げかける課題に、諦めずに取り組んできた。経験不足のために時々ミスもするがへこたれない。それに、まわりを和ませ、全体を包み込むような雰囲気を持つ人物だった。

 

一番若い彼女を中心に、プロジェクトが回っているかのように、ソヌには思われた。

 

ソヌは年長者として、仕事の進め方をあれこれ教えたつもりだが、実は、彼女からもっと多くを貰っていることに、いつしか気づいたのだった。

 

プロジェクトが始まった頃、ハジンは、ごく基本的なパソコン操作しか分かっていなかった。彼女は、研究所での要件が済むと、自分の企画書やデータ処理について、ソヌに質問してきたので、結局ソヌが教える羽目になった。

 

本社の上司には、返って聞きにくいのかもしれないな。

 

簡単な統計処理を教えた次の日、ソヌが大学から戻ると、理事室のデスクに、小さなカードとチョコレートの箱が置かれていた。留守中にハジンが、本社の会議資料と一緒に置いていったものだった。

 

 

ジョンヒを失った後は、彼女への思慕から逃れるため、研究に没頭するしかなく、帰国後は、ソヒョンが第一優先になっていた。そもそも、ソヌの研究分野では男性がほとんどであったため、女性と一緒に働くということは今までなかったのである。(ハン秘書は自分よりずっと年配であり、申し訳ないが論外であった)

 

巡り会わせというのだろうか。

 

ソヒョンとの生活にも慣れた頃、ビジネスパートナーとして、ハジンがふわりと現れたのだが、ソヌにとって忘れていた感情を呼び起こすきっかけになった

 

プロジェクトが軌道に乗ってくると、ハジンと一緒にいるときは気持ちが浮き浮きし、仕事もやりがいがあるのに、彼女が研究所に来ない日は、何だか全体が味気なく感じられるようになった。ハジンも、年長の自分を尊敬し好意を持ってくれているのが分かった。

 

彼女との仕事は、ソヌにとって仕事以上の意味を持つものとなった。

 

彼女が短期集中研修のため、数日間、研究所に来なかったことがある。

 

気が付くと、理事室のソファにごろんと横になり、ぼんやり天井を見ている自分に、ソヌは愕然とした。

俺は何をやっているんだ?

すぐさま、実験作業に取り掛かった。

 

研修が終了した翌日、やっと彼女から電話が来た。

 

翌週の予定を確認するための電話であったが、元気がない様子なので聞くと、サンプルの投票結果のバックアップを取っていなかったのだという。幸運にも、自分が最初の生データを持っていた。

 

ソヌは、心配している彼女を放っておけず、また、顔を見たくもあり、午後からそのデータを本社に届けた。ありもしない、大学での仕事の口実を作ってまで、である。大学の部下たちからは、実験も組まれていないし講義もないのに、何で来たのかと言われた始末である。

 

いつからか仕事のリズムを彼女に合わせることが増えた。

 

自分の方が融通が利くからそうしただけ、とソヌは、最初のうち、そう思い込むようにしていた。しかし、ハジンと一緒に居たいがためであることを、途中から認めないわけにはいかなくなった。

 

バックアップデータの件のときは、自分の管轄外のことまで、ハジンの面倒を見すぎていたことを、ソヌは内心反省した。

 

 

 ソヒョンが、ハジンを好いているのも、ソヌが彼女を愛するようになった理由の一つかも知れない。

 

二人が、他愛ないおしゃべりをしているのを聞きながら運転するのは、いつも楽しかった。

何気なく話していても、『母親を知らない子』であるソヒョンに対して、ハジンの優しさや慈しみの気持ちが感じられた。それは、間接的に、ソヌ自身に向けられた優しさにも感じられた。

 

知らないところで、ハジンとソヒョンは約束をしているらしかった。ソヒョンの運動会にハジンが来ていたのを、ソヌは、帰りの車の中、ソヒョンの話で知った。

 

「パパ、今日ね、ハジンお姉ちゃんが応援に来てくれてたんだよ。」

「え?どうしてパパに言わなかったの?」

ソヌは、思わず大きい声を出してしまった。

 

「だって、ソヒョン忙しかったんだもん。お姉ちゃんも、すぐ見えなくなっちゃった。」

「ソヒョン、ハジンお姉ちゃんって、だあれ?そういえば、この前も言っていたわね。」

ソヌの母が、会話に割って入った。

 

「パパのお仕事仲間のお姉さん。ソヒョンの仲良しだよ。ふあー。」

 ソヒョンは疲れたのか、眠そうにあくびをした。

 

ソヌはそれ以上、説明を加えることもなく、そ知らぬ顔でハンドルを握っていた。ソヌの両親は、顔を見合わせると少し微笑を交わした。

 

運動会の一件の後、思い切って、遊園地にハジンを誘ってみたら、彼女は素直に、快く引き受けてくれた。

 

多少、誘う理由をつけてみた。

子どもの頃、自分は乗り物酔いをしやすい方だったから、三半規管が弱いというのは、あながち嘘ではないだろう。

 

休日、ソヒョンを遊ばせるのは、基本楽しいし安らぎでもあったが、もう一人、大人がいるということは、それがハジンであることは、更に楽しく、華やぎのあるものだと知った。

 

ソヌは三人で出かけることを提案できても、どうしても、ハジンと二人だけでというのは気が引けた。

 

他ならぬ、亡くなってからまだ5年しか経っていない、ジョンヒへの遠慮と、ハジン本人への遠慮からであった。自分はその立場にはないと、彼は思っていた、いや、そう思うようにしていた。

 

大学の研究室には、ハジンと同じ年恰好の研究員がいるのに、彼女は、彼らに対してあまり興味がないようで、どちらかというとビジネスライクな立場を取っていた。言い方を変えれば、ソヌは、ハジンが気になり、彼女の様子をつぶさに観察していたことになる。

 

去年の夏、ふとしたことから、ハジンがバレエを見るのが好きだと分かった。本人も中学までバレエを習っていたらしい。

ソヌは、近日上演予定の『真夏の夜の夢』のチケットを2枚、密かに購入して、大学のデスクに忍ばせていた。

 

 

 

しかし、結局、それをハジンに渡せないまま、

上演の前日に、恋人のいる後輩研究員に譲ってしまったのである。

 

つくづく馬鹿だな

彼女に渡せないことは、最初から分かっていたのだから。

 

ソヌは自嘲した。

 

 

 

チルソゲ・ソンムル第10章 ②に続く

 

ソヌの心のうちが切々と語られています。

ソヌの思いはもう少し続きます。

次回は少し長めになるかもしれませんが

お付き合いください

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