明くる朝、寝台で粥などの食事を取り、薬を口に含んだクァンジョンは、これからは死ぬまで、これの世話になるのだなと、淡々とした諦めの思いだった。
午前中は、いつもより、ゆっくりと時間が流れていき、昼近くになり、女官長が、そろそろお着替えを、と申し出た。昨日倒れた後、紫紺の皇帝衣は脱がされていたが、白の袷をまとったままだった。
しかし、ちょうどそのとき、扉の外で、来客を読みあげる声がした。
「第十四皇子、ワン・ジョン将軍様、ならびに、ご息女様にございます。」
「通せ。」
今も尚、屈強な体つきのワン・ジョンは、後ろにスヒャンを従え、足早に大きな歩で、クァンジョンの前に進み出た。彼は、短く一礼すると、すぐさま言った。
「陛下、此度は大事に至らず、何よりと存じ上げます。どうか、お早く回復なされますよう、小臣、切に祈念申し上げます。」
そして、弟の口調に戻って続けた。
「昨夜、お目覚めの知らせを聞いておりましたが、参内は控えておりました。ペガ兄上にも早馬の使いを出してございます。ご気分はいかがでしょうか?」
「大丈夫だ、もう少し生き長らえることになった。心配をかけたな。」
クァンジョンは、無骨だがいつもゆるぎない、鉄壁の城砦のような弟を仰ぎ見た。この弟と、幼い頃から青年期、ずっと反目し合っていたとは嘘のように思われた。
スヒャンはといえば、後ろで涙をぬぐっており、一晩中泣きはらしたような顔をしていた。
「そなたと話している最中に倒れたとはいえ、そなたが責任を感じることはないのだぞ。」
そして、眉をひそめてクァンジョンは言った。
「…何か言われたのか?」
「いや、それが…。いえ、陛下、何か言われたなど、そのようなことは決してございません。」
ジョンは、スヒャンを見やりながら、珍しく歯切れの悪い言い方をした。
更に、ジョンは続けて言った。
「先ほど、御典医に聞きましたところ、ご病状は安定されている、と申しておりました。もし、さようでしたら、陛下、しばし、スヒャンの話をお聞き下さいますか?」
クァンジョンが頷くのを確認すると、
「それでは人払いを。私は外で控えておりますゆえ。スヒャン、よいか。」
ジョンは、娘の目をじっと見てから、内官女官をすべて引き連れ、いつものように、頭を下げて大股に部屋を出た。
広い部屋に、二人きりになって、クァンジョンは、スヒャンの啜り泣きがおさまるのを根気よく待った。
何なのだ?まさか、ホン・イルドとの婚姻が嫌だというのではないだろうな?
「どうしたのだ?」
いつまでたっても、涙が止まらないスヒャンに、クァンジョンは暫くしてから問いかけた。
やがて、スヒャンは涙を飲み込み、決心したようにクァンジョンを見つめた。そして、軍人の娘らしく居住まいを正し、目を伏せ、ささやくような声で、クァンジョンに呼びかけた。
「陛下…、お、お父様!」
予想外のスヒャンの言葉に、クァンジョンは言葉を失った。そして、父への思慕と皇帝への怖れのため、肩を震わせている不憫な娘を、クァンジョンは身じろぎもせずに見守った。
ややあって、クァンジョンは、自らも涙を浮かべ、小さく微笑んで優しく言った。
「なぜ分かった?」
「母が生前、私にあてて書いた、書状を読んだのです。婚姻が決まったときに開けるようにと、母が言い置いたそうでございます。昨夜…昨夜、父が渡してくれたのでございます。」
そう言って、クァンジョンに書状を捧げると、スヒャンは再び泣き出した。
書状を広げると、やや弱々しいスの筆跡がそこにあった。
『…あなたに、告げておくことがあります。それは、あなたの本当の父君が、第四代皇帝陛下であるということです。』
『愚かな母は、あの方のお側に、最後までいることが出来ませんでした。あなたを身ごもったことを告げずに、皇宮を下がり、ワン・ジョン様の元に輿入れし、あなたを産んだのです。』
『あなたには、朝廷の争いに巻き込まれず、平凡でも幸せな生涯を送ってもらいたいのです。あなたは、ワン・ジョン様の娘として生きていくのです。私の命は、もう幾ばくもありませんが、一切を伏せておいていただくよう、ワン・ジョン様にお願いするつもりです。』
『ですが、あなたが成長して、婚姻するときになっても、もし、皇帝陛下とのつながりが、明るみに出ていなかったら、そのときは、お寂しくしてらっしゃるあの方に、この書状をお見せし、あなたから、お父様、と呼びかけてほしいのです。陛下とあなたが二人きりになったときに。』
『あなたは大切な子だけれど、愛を求め、いつも孤独なあの方を、一人残していくのはとても心配です。どうか、矛盾した母の思いを分かってください。』
書状には、スの、娘やクァンジョンに対する思い、ジョンへの感謝が切々と綴られていた。
クァンジョンは涙にまみれた。
スよ、お前は…。
「長い間、すまなかったな。スヒャン、この父を許してくれるか。」
クァンジョンは、白い袷の胸に、スヒャンを抱き寄せた。そのつややかな髪をゆっくり撫でながら、彼は言った。
「そなたの母は、本当に、思い通りにならぬ人間である。そして、余の、永遠に愛しい女人である。スの娘、スヒャンよ、余はそなたの母を幸福に出来なかったが、お前には母の分も幸福になってほしい。」
五歳のとき、初めてこの子と会ってから、もう二十年近く経っていた。抱きしめたい思いを、クァンジョンは、ずっと封じ込めていた。
こうして、初めて抱きしめてみると、この子は、姿かたちが、何と、スにそっくりなことか。
一方、スヒャンは、伯父である皇帝が、自分に注いできた、慈しみの眼差しの何たるかを知った。
父娘は、二十年の空白を埋める、万感の涙を流した。
「陛下がお倒れになり、夜になって、この書状を読みましたとき、このまま、お父様とお呼びかけすることが出来なかったら、どうしようと…お許しください、このようなことを…。」
「そなたには、二重三重に心労をかけたな…。
そなたが、このように健やかに育ったのは、
ワン・ジョンと、育ての母御のおかげである。
余は感謝しても、し切れない。」
「これからも二人を父母として、慈愛と孝行を尽くすのだぞ。余は、こうして、そなたと親子の名乗りを上げたこと以上に、望みはない。これまでと同じように、そなたを見守っている。」
「お父様。」
少しして、スヒャンは、クァンジョンの胸からゆっくりと顔を離した。そして、クァンジョンの胸元を見つめたのち、少し驚いた表情で言った。
「お父様の胸に、バラの香りが…。お母様が残していったバラの香油の香りのようです…。」
クァンジョンは、思わず、咄嗟に、自らの襟元に残る、その香りをかいだ。
袷なのか、クァンジョンの体なのか分からないが、再会したときのスの香りがそこにあった。
あのときの私は、即位した年の私であったはずなのに…。
香りの痕跡は、魂にも痕を残すものなのか…。
「スよ、本当に、本当に、来てくれたのだな…。ああ、天よ、感謝いたします。」
クァンジョンは目を閉じて、心の中で、天への感謝の気持ちを繰り返した。
その翌年、クァンジョンは、二回目の心臓発作を起こした。今度は回復することは叶わなかった。最後は家族に見守られ、孤独な死ではなかった。
しかし、臨終の床で、彼のまぶたに浮かんだのは、青々とした初夏の皇宮をそぞろ歩く、若き日の自分と恋人の姿であった。
『お前は、私を忘れることが出来たか?』
『私は、再び、お前を見つけることが出来るだろうか。』
『できずとも…私には、スよ、お前がいる。』
クァンジョンは静かに目を閉じ、栄光と波乱に満ちた、五十年間の人生に終わりを告げた。
生き抜いた人生であった。
チルソゲ・ソンムル
第7章に続く
(11月15日改行など修正しました)
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