『一号ハウス』と書かれたドアを開け、すぐのところに、淡いピンクの花の一群があった。

 

これはバラではないわね。

 

バラは、その花弁が幾重にも重なり、重厚で威厳があり、誰が見てもバラとわかる。香料開発用のハウスだから、この一重の花も何らかの香料のサンプルになるのだろう、花のことを大してよく知らないハジンは、単純にそう考えた。

 

                       

 

 

ひらひらと振られるハンカチのような、広がったドレスの裾を思わせるような、エレガントで楚々とした控えめな花だった。

 

ハジンは、その細い花首の一輪を、そっと顔に寄せて嗅いでみた。驚いたことに、その可憐な外見とは異なり、その一重の花の芳香は、かなりしっかりしたものだった。甘い香りの中にも何かピリッとするような、香りのベースになるものを持っていた。

 

顔から離したその花を、ハジンは改めてまじまじと見つめた。

 

「何ていう花なんだろう。」

 

 

 草花の中を歩くと、懐かしい思いがこみ上げてきた。

 

高麗の皇宮は、広大で緑が濃く、木々のはざまに、四季の花が雑多に植えられていた。春先の藤に始まり、菖蒲(あやめ)、今の季節は、紫陽花や芍薬の頃だろうか。バラもあったと思うが、野バラやつるバラの類が群生していたと思われ、ここのバラたちのように、洗練されたものではなかった。

 

彼が即位した後、二人してよく散策したことを思い出しながら、ハジンはハウス内を時間をかけて見て回った。今日は、結構な暑さで、ハウス内の満開のバラたちは、少し疲れているように見受けられた。

 

 

 高麗でも、外国のバラの香油が入ってきており、ペガ皇子が誕生日に下さったことがある。

 

記憶が戻りかけたとき聞こえたのは、今思えば、ペガ皇子の声だった。私の誕生日に、ペガ皇子は、あの方をからかって、こんなことをおっしゃった。

 

『兄上は、迷ってしまって、贈り物を選ぶことが出来なかったようだよ。』     

 

私が、ペガ皇子の贈り物を気に入った様子を見て、あの方は終始不機嫌な表情だった。

 

あの方は不器用なところがあった。

ペガ皇子がさっさと贈り物を決めてしまった側で、あの方は、本当は、何を下さろうとしていたのだろう。

 

高麗では、そんなことを尋ねたことはなかったけれど、今になってみて、気にかかる。他愛ないことだけれど、聞かないでいたことが何てたくさんあるんだろう。

                      

 

               

 

 

『誕生日の贈り物に、素敵なものを見せてやる。』  

 

その夜、私を連れ出して、あの方は、満天の星空を見せてくれた。星が、こぼれて降ってくるような夜だった。

 

あの方は、普段あまりお召しにならない、赤の装束だった。とてもよく似合っていた。

 

物事が大きく動き出す前の時期であり、考えてみれば、一番心穏やかに過ごせたときだった。

 

『今度の休みになったら、願いの塔に行こう。あそこで話したいことがあるのだ。』  

 

もし、そのまま、願いの塔で、求婚されることができたのだったら。そして、二人して、皇宮から離れられたのだったら…

 

私の命が尽きるまで、ずっとおそばで過ごすことができたのかもしれない。短いながらも、娘と三人の暮らしを送ることもできたのかもしれない。

 

しかし、あの方は第四代皇帝、クァンジョン

皇宮を離れたままということは、あり得ない。歴史が変わってしまうことになるもの。

やはり、結局、あのように、二人して、歴史の渦に巻き込まれていくしかなかったのだ。 

 

 

 現実の世界を遮断して、ハジンは深い回想の中をさまよっていた。

 

ハウスの奥の方までたどり着いた。もう、事務所に戻らなければ。そろそろ理事が戻ってくる頃だ。気が付くと、じっとりと汗をかいてしまっている。それに、少し息苦しかった。

 

「暑い。」

 

そう思ったとき、ハジンは、突然立ちくらみを覚えた。

 

心は過去の風景に没入していたため、それまで暑ささえも意識していなかったのだ。めまいがして、目を開けていられず、思わずしゃがみこんでしまった。

 

過去の記憶を取り戻してからというもの、ハジンは、ただでさえ憔悴した日々を送っていた。それに加え、ハウス内のこの暑さで、かなり体力を消耗していた。

 

彼女は、バラの根元に、力なくぐったりとくずれ落ちた。

 

彼女の意識は、深く深く沈んでいった。

 

一年前、池で溺れた、あの時のように。

 

 

                  

     ハート  ハート  ハート

 

 

 

顔にちくちくとしたものを感じ、ハジンはゆっくりと目を開けた。

 

気が付くと、短く刈り込まれた草地に横たわっていた。

 

「私、暑さで気を失っちゃったの?」

 

手をついてゆっくりと上体を起し、周囲を見回すと、先ほどとは何だか様子が違う。周りは薄暗く、白い靄(もや)が立ち込めている。

 

「どうして、ハウスの中が、こんなに曇っているの?まさか、火事?」

 

周りをよく見ようとして、顔にかかった、ひとすじの髪をかき上げたとき、彼女は、自分が身に着けているものに、あっと驚いた。

 

 

ハジンは、顔に触れた、模様が織り込まれた

長い袂(たもと)をまじまじと見つめた。

 

これは…

いったい、何が起きたというのだろう。

 

彼女は、白と水色の、高麗の優美な装束を身にまとっていたのである。

 

 

 

                               チルソゲ・ソンムル

第3章に続く

 

改行など修正しました(11月3日)

 

 

 

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