被災地支援(Vol.2)救助活動 | PRINCE 仙波 王仁 オフィシャルブログ

PRINCE 仙波 王仁 オフィシャルブログ

PRINCEのオージこと仙波王仁(せんば おうじ)です(^^)
PRINCEの活動内容を書いていきますね♪

3月14日PM10時
PRINCEのお客様やSNSのフォローさん達に見送られ、松山を出発。

皆さんから沢山のカンパやお守りを頂いた。本当にありがとう。 
 

また、私が所有する車はどれも車高の低いスポーツカーであるため、被災地での移動にはとても使えない。
そこで、当社の提携板金工場「ボデーショップ・ワイズ」の社長であり、小学生時代からの親友・GoodSunから、1BOXカーのボンゴを借りた。

言うまでもなく、被災地は危険な地。ボンゴも無事に戻って来られないかも知れない。にもかかわらず被災地のために愛車を提供してくれた親友の男気に感謝。

私自身、生きて帰れるとは限らない。万一に備えて遺書を書き、父親に渡してきた。

瀬戸大橋を渡り、PAで4時間ほど仮眠し、そのまま一路、被災地へ。
山形県経由で行かざるを得ないため、新潟県で一旦、高速を降り、下道を通って山形から再び高速に乗る・・・はずが、雪崩により山形道がまさかの通行止め。またもや下道で仙台市を目指す。
道中、某大学で講師をしている親友が、被災地までのルートや震災に関する貴重な最新情報を逐一提供してくれたため、ここまで無事にたどり着くことが出来た。本当に感謝してもしきれない。
 

3月16日 AM3時30分
仙台市に到着。

沿岸地域を目指して車を走らせる。
夜中の3時過ぎなのに、ガソリンスタンドには長蛇の列。被災地は燃料不足なので、スタンドには1kmを越える行列が24時間待ちで並んでいるのだ。

ほどなくして塩釜市の港に近付く。またもや道路の両脇に車の行列。ガソリンスタンドかと思ったら、違う。どれもこれもボロボロのスクラップばかり。そう、津波に押し流された被災者(犠牲者)達の車である。あまりにも数が多いため置き場所が無く、港近くの道路脇に並べるしかないのだ。

港に到着。
いきなり道路上に打ち上げられた船に出迎えられる。

周囲の建物はどれも半壊状態。
「これは酷い・・・」
実際に被災地を見ると、その被害の酷さに改めて驚かされる。

しかし、私は翌日から、もっと凄まじい惨状を目にすることになる・・・。

AM8時起床
昨夜はボンゴで車中泊。
今日から救助活動を開始する。
私が活動予定地として選択したのは、宮城県の石巻(いしのまき)市。1,000人以上の遺体が発見された牡鹿半島の根元に位置する、最も被害の大きい地区のひとつである。

塩釜市を出発し、沿岸沿いを通って石巻市を目指す。
すると、岸壁や道路上に打ち上げられた船や、半壊した建物、ボロボロの車が次々に現れる。なんという惨状…。 

 



しかし、それはまだ序章に過ぎなかった。

塩釜市→松島→東松島→石巻市とボンゴで移動する。
津波で被害を受けた沿岸地域を移動したのだが、どこも酷い状態であった。

街中に船が打ち上げられ、通行不可能に。

 
地元の消防署も被災し、救助活動に支障が出ていた。

ほどなくして石巻市の渡波(わたのは)地区に到着。

上空を軍用ヘリが飛び交い、自衛隊の装甲車や機動隊の大型バスが大挙して行き来し、まさに非常事態であることを否応にも実感する。

街を見て絶句した。
石巻市の惨状は想像以上で、あまりの惨状に言葉を失った。
救助活動に来ていた米軍の兵士ですら言葉を失っていた。
街の状態を一言で述べると、(今の時期に適切な表現であるかどうか分からないが、率直な感想として述べると)まるで街に核ミサイルが落ちたような状態である。
住宅や店は破壊され、大破した車が屋根や木の上に引っかかっている。辺りは砂と泥に覆われ、アスファルトが見えない。まさに地獄絵図である。

渡波地区メインストリートの交差点。

しまむら


日産ディーラー


カラオケまねきねこ

たくさんの車があり得ない所に


鉄道がストップするのも当然である。


全国から集まった消防、警察、自衛隊の各救助隊が全半壊した住宅で必死に救助活動を行なっている。
しかし、全半壊した住宅はあまりにも数が多く、明らかに人手が足りていない。

急いで参加せねば…。

半壊した家の駐車場に車を停め、装備を身につけていると、そこの住人らしき女性がやって来て、血相を変えて私に言った。

「自衛隊の人ですか?!」

雪の降る災害現場では、丈夫で防水機能のある服が必要であるため、私は私物の迷彩服(米軍のゴアテックスパーカー上下)を着ていたので、自衛官と間違われたのだろう。

「いいえ、私はボランティアで救助活動に来た元レスキュー隊の…」


言い終わる間もなく、


「レスキューさん、助けて下さい!ウチの子がまだ家の中にいるんです!」

女性は半狂乱で泣き叫び、私の腕を引っ張って家まで連れていこうとする。
辺りを見渡すも、消防や自衛隊は他の救助活動で手一杯である。

そこで近くにいたレスキュー隊に道具を借り、私一人で家の中に入り、救助活動を始めた。
半壊した家はガレキの山で、捜索は困難を極めた。
慎重に捜索しないと、ガレキが崩れたら私の命もない。

捜索を続けると、ほどなくして人間の腕が出てきた。

「ウチの子です!早く助けて!」

ますます半狂乱で泣き叫ぶ女性。

「危ないからさがって!」

女性を退避させ、救助に入る。

が、発見した腕は泥まみれで、生気もなく、明らかに手遅れの状態。
死亡を確認するべく、革グローブからゴム手袋に替え、脈を取ろうと腕に触れると、まるで真冬のコンクリートのように冷たい。
脈を取るには腕の角度が良くないので、肘の部分で曲げようとするも、死後硬直で全く動かない。

やむなく近くにいた熊本県警に頼んで数人で遺体を取り出し、検死を依頼した。

「お母さん、大変申し上げにくいのですが、息子さんは既にお亡くなりになっています…。」

女性に伝えると、泥の地面にうずくまって号泣し始めた。

かける言葉がない…。

その後も3家族から救助を依頼され、各家を捜索するも、いずれも見つかるのは遺体ばかり…。
小学生の女の子、5歳くらいの男の子、老人男性・・・。
本当に胸が締め付けられる。

遺族の中には、気丈にも私の手を両手で握って何度も感謝の言葉を述べる人も。

結局、この日は他の救助隊も含めて、数十人の遺体を発見するも、生存者は皆無であった。
無理もない。この惨状である。
「1人でも多くの命を救えたら…」
という私の当初の希望は見事に打ち砕かれた。

その日は石巻市の市街地に戻り、ボンゴで車中泊をした。
市街地の住民は全員退避しており、さながらゴーストタウンのようであった。

現地での私の食事。
フリーズドライの携帯食料と、フォロワーさんから頂いた缶詰め。

 

寝る前にSNSをチェックする。
マイミクのみんながたくさんの応援コメントを残してくれている。
涙が出そうだ。
地獄の地にいる私にとって、マイミクのみんなの応援コメントは、最大の心の支えである。
みんなに心からの感謝!

3月17日 AM9時
ボンゴ内で起床。
携帯食料を食べ、再び渡波地区へ行く。

地元の石巻市消防署渡波出張所へ行き、昨日の経緯を伝えると、大変感謝され、全国から集まった救助隊のベースキャンプを紹介される。
紹介された石巻市総合運動公園へ行くと、全国から集まった消防と自衛隊がベースキャンプを設置していた。


訪れるや否や、兵庫の消防レスキュー隊が出動準備をしている。
聞くと、南三陸町から救助要請があり、これから出発するとのこと。

私が元・消防レスキュー隊員であることを伝え、活動参加を申し出ると、
「それはぜひともお願いします!」
と快諾された。

この部隊は「緊急消防援助隊 兵庫県隊」で、神戸市消防局の指揮の下、兵庫県下の消防レスキュー隊が集結している部隊である。
兵庫は阪神大震災で助けてもらった恩があるため、兵庫消防の意気込みは凄く、今回の震災で集まった全国の救助隊の中でも、その規模は群を抜いていた。

私は神戸市消防、明石市消防、三木市消防、高砂市消防、加東市消防の連合部隊に参加することとなった。

10台の消防車の最後尾に私のボンゴがくっついて走るという、極めてシュールな隊列を作り、高速道路で南三陸町を目指した。 


被災地の高速道路はパトカーが検問を張り、緊急車両しか通行できないが、当然ながら私のボンゴも通行を許可された。

ところが途中、思わぬハプニングが発生。

消防車のカーナビが古く、最新のインターチェンジの情報が入っていないため、間違って手前のインターで途中下車をした。
しかも、加東市消防の消防車がエンジントラブルで動けなくなるというトラブルも発生。

これは車屋である私の出番である。

早々にトラブルを解決し、出発しようとするも、消防車のナビが古くて最短ルートが分からない。
そこで、最新ナビを装着している私のボンゴが消防車を先導して南三陸町に向かうこととなった(愛媛ナンバーの一般車両が神戸ナンバーの消防車を先導して被災地に救助に向かう光景は極めてシュールであった)。

ほどなくして南三陸町に到着。

またもや言葉を失った。

石巻市はまだ建物が残っていたが、南三陸町は建物がほとんど流されており、まるで更地のようであった。
その光景は(この時期に適切な表現かは分からないが)、まるで原爆の爆心地である。
 

住宅はほとんど残っておらず、残っていても1km以上も流されている。
ビルは鉄骨部分しか残っていない。
流された住宅は川を飛び越しており、これを見ても津波の高さはそうとうなものであった事が伺える。実際、ビルの壁面に残された海水の跡は優に20メートルを超えており、専門家が「津波の高さは最大で50メートルを超えていたのではないか。」とテレビで述べていたのも頷ける。

↓右側の建物は南三陸町役場。跡形もなくなっている。
左側の建物は皮肉にも「防災対策庁舎」である。
 

 

鉄骨造りのドラックストアが辛うじて残っているが、この状態である。

警察署も壊滅状態。

病院前に設置してあった、チリ地震の時の津波の高さを表示した看板。
今回の津波はチリ地震の10倍以上の高さであった。

JRの高架。
津波の威力で路線部分が転落して裏返しになり、橋桁だけが残っている。

どこから手を付けて良いか分からないほど酷い惨状であるが、神戸消防の司令官の指示により、とにかく全半壊した住宅を中心に捜索・救助活動を開始する。

しかし、活動中に何度も余震が発生し、その度に司令官から退避命令が出て、捜索活動が中断される。
捜索に入った建物が余震で倒壊すれば、我々の命は無い。とにかく慎重に行なう。

しかし、この日も生存者は発見されず、見つかるのは遺体ばかりであった・・・。

経度の関係で東北地方は日没が早いため、17時で捜索はいったん打ち切られ、石巻市のベースキャンプに戻った。
兵庫消防は私の活動参加に大変感謝してくれ、夕食とトイレを提供して頂いた。

加藤市消防の方々と一緒に夕食を頂いた。

今夜のメニュー。
レトルトのボンカレーとおにぎり。

夕食を終え、翌日の救助活動に備えて早めにシュラフ(寝袋)に潜り込む。

寝る前にSNSをチェックする。
またもや友人の皆がたくさんの応援コメントを残してくれている。
みんなに心からの感謝!

3月18日 AM7時
加東市消防の救助隊員に起こされる(愛媛からの長距離運転直後に救助活動を連日行なっているため、疲労で朝が辛い…) 。

「朝食があるからおいでや~」
と嬉しいお誘い。
朝食はご飯とインスタント味噌汁であった。

↓眠そうな私。


今日も南三陸町で捜索・救助活動を行なう。

政府は昨日、被災地での生存者捜索活動の打ち切りを発表したが、南三陸町はいまだ捜索が完了していないため、今日も引き続き活動を行う。

昨日と同じように高速道路で南三陸町へ行き、活動を再開する。

神戸市消防局の司令官から作戦指示を受ける。
レスキュー隊といえばオレンジ色の制服だが、災害等で長期滞在する場合は洗濯できないので、ブルーの使い捨て作業服を上に重ね着しているのである。

またもや余震で何度も活動中止を余儀なくされる。

ガレキの中から美容師の練習用のマネキンが出てきた。
脅かすなよ~(汗)




午後12時 昼食 
加東市消防と一緒にベースキャンプでもらったおにぎりを食べる。
男衆が握ったおにぎりは硬く、形もイビツ。
フォロワーさんから頂いた缶詰をオカズにする。

神戸市消防がパンの缶詰を配ってくれた。けっこう美味しい。 

 

13時 捜索再開
しかし、この日も見つかるのは遺体ばかり…。
もう何百体の遺体を見たか分からない程、現地は遺体の山であった。
死体を見慣れていないマスコミが、あちこちで嘔吐している。
私はレスキュー隊時代に何度も死体を見ているため慣れてはいるが、しかしこれほど多くの死体を目にしたことはない。
また、消防や警察と違い、自衛隊は普段、死体に接する機会がないため、自衛隊員の多くが嘔吐していた。
現在、現地の看護師や自衛隊員の多くがPTSD(心的外傷後のストレス障害)になっており、問題になっている。彼らのケアをどうするかも今後の課題であろう。

17時
捜索を終え、石巻市のベースキャンプに戻る。

この日も夕食を提供される。今夜はレトルトのハヤシライス。

夕食を終え、ボンゴの車中で就寝の準備をしていると、ジャーナリストの江川紹子さんから電話を頂いた。
紹子さんとは個人的にお付き合いがあり、今回の私の活動にも多額のカンパを頂いた。

電話の内容は、今回の震災で被災していない国民が何をすべきかを教えて欲しい、とのことであった。

そこで、私見ではあるが、被災地で感じたことをいくつか伝えた。

① 現地の自治体は一般人のボランティア参加を断っているが、素人が被災地に来ると二次災害を招く恐れがあるため、それもいた仕方ない。そもそも被災者の避難生活で手一杯であるため、ボランティアの生活まで面倒見切れないのが現状である。
したがって、本気で被災地でボランティア活動をしたいのなら、まず各自が現地で自活できるスキルを身につけなければならない。つまり、宿や食事の提供を受けなくとも、テントや携帯食料を持参して、自分のことは自分で賄えるスキルである。被災地に支援ボランティアに行く者が、被災地から宿や食事を提供してもらうなど、本末転倒である。
今回の震災を教訓に、国民全員が一定のサバイバル能力を身に付ける必要がある。現に、スイスでは国民全員が有事に備えて自活できる訓練を受け、自宅に非常食等を備蓄することを義務付けられている。地震大国である日本も、その位の制度を導入すべきである。

② 被災地には全国から続々と支援物資が送られてくるが、やみくもに送られても、届いた物資の仕分け作業が大変で、それだけで膨大な時間と人手が取られる。

また、阪神大震災や新潟県中越地震等でも、被災者が必要としていない物資が大量に送られ、これが大量に余って問題となった。
これらの経験を踏まえ、現在は各自治体が必要な支援物資のみをまとめて募集し、各自治体が被災地へ送付するという制度がとられている。
しかし、この制度を知らずに、やみくもに物資を送る人が未だに耐えないので、国民が一丸となって、この制度の周知徹底を図ることが急務である。

③ 義援金の集め方にも大いに問題がある。
様々な機関が義援金を募っている。
しかし、皆さんはその使途について考えたことがあるだろうか。
多くの役所で「裏金作り」の事実が発覚しているのが我が国の現実である。
このような状態で、何の疑いも抱かずに漫然と義援金を送ってはいけない。

現に、私が知る限りでも、某国際医療団体が義援金の多くを「必要経費」と称して被災地支援以外に流用している事実が発覚している。
被災しなかった国民は、義援金募集団体に漫然と送金するのではなく、これを機会に義援金の使途を追及し、集まった金額や使途を透明化できる機関の設置を急がねばならない。

紹子さんと1時間近く話をしている最中、またもや余震に見舞われた。かなり大きな余震であった。
明日も無事に救助活動を行えるか分からないが、皆さんに「必ず無事に帰ります」と約束した以上、必ず無事に帰ります!


3月19日 AM8時起床
疲れもピークだ。

一昨日で政府が生存者の捜索・救助活動を打ち切ったが、塩釜市の石油化学コンビナートで火災が発生したため、消火活動に行くことになった。

準備をしていると、先発隊の手によって鎮火したとの知らせがあった。
これにより、我々はベースキャンプで待機となった。

午後になり、もうコンビナートの火災は大丈夫だろうと言われたため、私はいったん仙台市に戻り、被災者に届ける支援物資を購入することにした。
ちなみに、仙台市はそれほど震災の被害を受けていないため、入浴可能な浴場もあるとのこと。
4日ぶりに風呂に入れそうだ。

高速道路はいまだ緊急車両以外は通行止め。
しかし、例によって私は通行を許可される。

高速道路は地震の影響で路面が所々損傷し、大きな段差も多数存在するため、慎重に走行する。
途中、陸橋が損壊の恐れのため通行止めとなり、仙台の手前で下ろされる。

個人的にお付き合いのある共同通信社の中村記者(わざわざ石巻市を取材地に選んでくれた)から連絡が入る。
仙台市に戻っているので会えないか、とのことであった。

大学講師の親友から、仙台市内の「錦湯」という銭湯で入浴可能というメールが入る。
本当にこの男の情報収集能力は天下一品だ。
津波で携帯電話の基地局の多くが破壊されているため、通信が規制され、電話はなかなか繋がらないが、メールは比較的よく繋がる。

仙台市に入り、「錦湯」に行くと、長蛇の列。
1時間以上並んで入浴する。
番台にお爺ちゃんが座る、昔ながらの銭湯にホッとする。ひとときの安らぎである。

久しぶりに携帯食料以外の食事をとり、共同通信社の記者と会う。
私の救助活動を記事にするかも知れないという。

記者と別れて石巻市に戻ろうとすると、ボンゴの左前輪がパンクしている。
これでは戻れないので、某カーショップの近くで車中泊をすることに。

SNSをチェックする。
またもや友人の皆からたくさんの応援コメントが入っている。
ニンマリしながら眠りに就いた。

3月20日 AM9時起床
疲れが取れない。

某カーショップでパンク修理をしてもらう。パンクの原因は釘であった。ガレキが散乱する被災地を走るのであるから、そんなこともあろうかとスペアタイヤを持参してはいたが、まずはメインタイヤの修理が最優先である。
雪と泥でボロボロになったワイパーのゴムも交換する。
 

避難所に届ける支援物資を購入するべく店を探すも、震災の影響でどの店も閉店している。

ドンキが駐車場で青空市場を開いている。
店舗が損壊しているため、駐車場でわずかな物資を販売している。
ありがたいことだ。
支援物資の購入を始めるも、燃料不足で商品を入荷できないとのことで、あまり品数がない。

次に、某ドラッグストアに行く。
買い占め防止のため、1人5点までという購入制限をしている。
「避難所に支援物資を届けるのですが、それでも購入制限があるのですか?」
と尋ねると、その場合は構わないとのこと。
それは嬉しいはからいだ。

被災所で実際に聞いたところ、
「今は支援物資が続々と届けられているので、食料や水はいらない。今、必要な物は、下着、靴下、乾電池、懐中電灯、ドライシャンプー(水のいらないシャンプーや石鹸)、生理用ショーツ(生理用品は十分届いている)、歯ブラシ、歯磨き粉、赤ちゃんのお尻ふき、ウェットティッシュ、子供のオヤツ」
とのこと。

それらを大量に買い物カゴに入れていく。
商品によっては品切れの物も多数ある。
子供のオヤツも、残っているのはグリコの「ビスコ」だけであった。
ビスコを段ボールの小箱(1ダース入り)で大人買いした。

レジに持って行くと、レジの女性から、
「どこに届けるのですか?」
と聞かれたため、石巻市であることを伝えると、
「私も石巻出身なんです!実家は何とか無事だったのですが、行方不明の友人がいて…」
と言うため、私が石巻市でボランティアで救助活動をしていることを伝えると、その女性は涙を流して感謝してくれた。
レジ打ちを進めるていると、レジの女性がビスコの小箱を取り出し、
「これは私に買わせて下さい。」
と言ってビスコだけ別会計にし、自分の財布から代金を支払ってくれた。
その女性の心に感動した。
(↓ご本人の希望により、画像は一部加工しています)
 

お会計終了。
ボンゴに積み込み、石巻市に向かう。こういう時、荷物を大量に積める1BOXのボンゴで来て良かったと痛感する。ボンゴを提供してくれた親友に改めて感謝。

高速道路は途中の陸橋の修復が終わっていたため、ノンストップで石巻市に戻れた。

渡波地区の避難所へ行く。
被災者が本当に必要としている物だけを届けたため、被災者の方々から、
「これが欲しかったんです。本当にありがとうございます。」
と涙を流して喜ばれた。

別の避難所へ行く。
被災者達は明るく振る舞い、一緒に写真を撮ってくれた。
しかし、どう見てもカラ元気であり(当然である)、こちらを気遣って精一杯明るく振る舞ってくれている被災者達の心遣いに嬉しくもあり、悲しくもある。
 

頑張って下さい、などと軽々しく言えない。しかし、それしか言えない。

被災地では、海水魚が津波によって海水と一緒に陸に流され、海水魚が田んぼの中を泳いでいるというシュールな光景も見かけるが、震災直後は食糧不足であったため、田んぼの海水魚を捕まえて食べている人も見られた(現在は食料や水は十分に行き届いている)。
 

↓こんな出来事も。
mixiニュース「被災地の田んぼでイルカを救出」

また、被災地では燃料不足のため、被災者達が横転した車(現地では横転した車には事欠かない)からガソリンを抜き取って確保するという光景も多数見られた(無論、これは生き残るためのやむを得ない行為であり、法的にも問題のない行為である)。

被災地では、震災に乗じた空き巣や、被災者に物資を高額で売りつける輩も出ている。
連中は被災者のこうした惨状を見ても尚そのような行為に及ぶのであるから、信じがたいものである。

被災者の人数が多く、購入した支援物資が残り少なくなったため、仙台に戻ってもう一度大量購入することにした。

明日からは、岩手県まで行って支援物資を提供して回る予定。

皆さんは、被災地のこうした現状を知り、エセ義援金募集団体に募金して彼らの私腹を肥やす手助けをするのではなく、本当に被災者の為になる行動を取って欲しい。
例えば、現地でボランティア活動をしているNPO法人に寄付すれば、現実的な支援を行なえる。
ジャーナリストの江川紹子さんから紹介され、私も実際にお会いして活動を見せて頂いたNPO法人がある。
元々は海外の紛争地帯で難民の支援活動をしているNPO法人で、新潟県中越地震から国内での被災者支援活動も開始し、東日本大震災でも被災地を回って各所で本当に必要とされている物資を調査し、ユニクロとタイアップして被災者に衣服を提供する等の実効的な活動を展開している。
私も実際にお会いして活動を見せて頂いたが、彼らなら信頼できる(注・NPO法人の中には震災詐欺も存在するので、必ず信頼できる人から紹介を受けるようにして下さい)。

被災地支援をしたい方は私までご連絡頂ければ、私が責任を持ってご紹介します。
私へのご連絡は、このブログにコメントかメッセージでお願いします。