4.志向性

すでに見たように、知覚を表象の一形式とみなすならば、われわれは現象原理を退けることで錯覚・幻覚論法を免れうる。その場合、知覚は経験対象との関係ではないということになる。

こうした見方は志向性概念に関する伝統的な見方(ブレンターノ等)に含まれているものである。志向的状態の存在はその志向的対象の存在を含意しない。それゆえ、志向性は関係ではない。クレインは、志向性をもつ表象として知覚を捉える見方を「志向説」と呼ぶ。

知覚の志向性は関係ではなく知覚経験の内在的性質であるが、こうした志向性の見方は他の幾つかの概念によって覆い隠されてきた。

(1) クオリア:クオリアは典型的に心的状態の内在的性質として捉えられ、関係的なものとされる志向的性質と対比されてきた。ここで志向的性質は関係的だとされるが、それは志向性が他の心的状態との関係において機能的に理解されているからである。だが、これは機能主義の十全な理解には達していない。なぜなら、ここでの「関係」は傾向的なものにすぎず、傾向性はその顕現(manifestation)との関係ではないからである。

(2) 志向的対象としての命題:志向的性質は志向的対象としての命題との関係を含むがゆえに関係的であると言われてきた(Stoljar、あるいはタイの表象主義)。しかし、われわれは経験の命題的内容と志向的対象とを区別すべきである。知覚者は経験の志向的対象を見るのであって、その命題的内容を見るのではない。命題を志向的対象と呼ぶことはミスリーディングである。われわれは志向性が志向的対象との関係ではないという志向説の考えを保持しつつ、知覚が命題とのある種の関係を含む(=命題によって分析可能である)ということを認めることができる。

(3) 外在主義:志向性あるいは心的内容に関する外在主義者は、志向性の一部は関係的であると主張してきた。彼らは対象依存的な内容をもつ志向性は関係的であり、対象独立的な内容をもつ志向性は非関係的であるとする。これをクレインは「志向性の混合説」と呼ぶ。対象依存的な志向的内容とは、その存在が個別的な対象の存在に依存する内容である。それゆえ彼らは、経験に関する表象的な見方は志向的状態に関する対象独立的な見方を適用しなければならず、関係的な見方は対象依存的な見方を適用しなければならないと考える。

しかし、前者は誤りである。なぜなら、バージが明らかにしたように、知覚の表象理論は個別的な知覚エピソード(幻覚と同じ内容をもつ通常の知覚)が対象依存的であることを許容するからである。われわれは個別的な知覚エピソードに関して真であることと、同じ基本的種類に属する心的状態に関して真であることとを区別すべきである。

では後者についてはどうか。混合説の主張者は、知覚の対象依存性を特徴づけるのは、それが直示的内容を含んでいることだと考える。それゆえ、経験に関する関係的な見方は、知覚対象についての直示的思考を行う主体の能力によって、知覚がもつ対象依存的な志向性を説明するだろう。しかしこれは、知覚に基づいた思考の内容が関係的であるということを意味するにすぎない。

より根本的な問いは、知覚それ自体が関係的であるか否か、知覚が世界それ自体を心に提示するか否かである。これを理解するためには、われわれは対象依存的思考に関する議論を宙吊りにし、経験の関係的な見方の核心を突き止めなければならない。

5.選言説

経験の関係的な見方と最もよく調和するのは「選言説」である。

選言説の主張者は、通常の知覚と幻覚が同じ基本的な種類の心理的状態に属することを否定する。主観的に識別不可能な知覚と幻覚に共通する最も規定的な記述は、高々次のような選言的なものにすぎない。「ウサギの知覚的現れは、ウサギの真正な知覚であるか、あるいは、ウサギの単なる幻覚である」。

選言説の主張者は、知覚と幻覚が共通の「質」をもつことを認める。

また彼らは、知覚と幻覚が共通の物理的状態(例えば脳状態)をもつことを否定しない。彼らが否定するのは、対象を知覚している状態がこの物理的状態と同一である、あるいは、それに付随するということである。なぜなら、知覚はその対象に対して構成的に依存しているからである。真正な知覚において性質は例化されているが、幻覚においては単に表象されているにすぎない。真正な知覚の現象的性質は知覚された世界の在り方によって決定される。

選言説は「真正な知覚は世界との関係である」という常識と調和するという利点をもつ。

選言説は、知覚と幻覚とを異なる基本的種類に属する心的状態とすることで、内観的な自己知の権威に限界を設けるという代償を払う。それも心的内容に関する外在主義からすれば問題ではないが、外在主義と自己知の権威性とが両立可能であるかに関しては係争中である。

他方、志向説は知覚の関係性を犠牲にするが、それは伝統的な志向性概念からの当然の帰結にすぎないとする。

6.クオリアの問い

 クオリア理論は以上において示した知覚の問題のなかでどこに位置づけられるのか。

まず、副詞理論との親縁性が目に入る。副詞理論は、対象がFという性質をもっていると錯覚するとき、経験は‘being a sensing F-ly’という性質をもっていると主張する。幻覚の場合も、副詞理論はそこで気づかれている対象を経験の変容=修飾(modification)によって説明する。

しかし、クオリア理論と副詞理論は異なる。クオリア理論がクオリアによって説明しようとするのは、経験の「質的な」側面のみである。他方、副詞理論は、経験において与えられるもののすべての側面を経験の性質から説明しようとした。こうした違いが生じるのは、副詞理論が錯覚・幻覚論法に答えようとしたものであるのに対し、クオリア理論はそうではないからであり、また、クオリア理論がそうであろうとすれば、それは直ちにその妥当性を失うからである。

クオリア理論は、「経験は表象的内容に加えてクオリアももっている」という形において最もよく定式化できる。

2節でみたように、われわれは経験の対象だけではなく経験の仕方に気づくことができる。しかし、それが内在的なクオリアの例化によって最もよく説明できるかどうかは議論が必要である。

選言説は一般に経験がクオリアを含んでいることを否定する。それゆえ、クオリアに関する議論は志向説の内部でのマイナーなものにすぎない。

以上より、クオリア理論は知覚の中心問題、すなわち「知覚的関係は存在するか」という問題には関わらない。

Is There a Perceptual Relation?, Tim Crane

In Perceptual Experience,

ed. Gendler, T.S. and Hawthorne, J.,

Clarendon Press, 2006

本論文の要点:

本論文でクレインは、知覚の中心問題は「経験はクオリアを含んでいるか」ではなく、「知覚は世界との関係であるか」であると主張する。それゆえ、知覚の哲学における最も大きな亀裂は、前者の問いに答えようとする「表象主義」と「クオリア理論」の間にではなく、後者の問いに答えようとする「志向説」と「選言説」との間に存する。本論では志向説と選言説の内実を明らかにするに留め、両者のどちらがより妥当であるかに関する議論は行わない。だが、クレインは、知覚の中心問題をこのように定式化することで、志向性概念の正しい理解が得られると論じる。彼は最終節で、クオリアの存在に関する議論の再定位を行い、それを志向説のなかでのマイナーな問題にすぎないとする。

1.序

表象主義(representationalism)……経験において気づき(awareness)の対象となるのは、事物それ自体とそれがもつ諸性質のみである。経験についての内観(introspection)は、経験それ自体がもついかなる性質も明らかにしない。

クオリア理論(qualia theory)……経験についての内観は経験それ自体がもつ性質を明らかにする。その性質とは、内在的で非表象的で「質的」な性質、すなわちクオリアである。経験はその表象的性質に加えて、非表象的なクオリアを含んでいる。

表象主義とクオリア理論は相対立するものであり、ネッド・ブロックはこの対立を心の哲学における最も大きな亀裂と位置づける。クレインはこのブロックの見解を否定し、少なくとも知覚の哲学においては、当該の対立(およびクオリアの存在に関する議論)は中心的な重要性をもつものではないと主張する。知覚の哲学における最大の亀裂はむしろ志向説(intentionalism)と選言説(disjunctivism)の間に存する。その対立点は「知覚的関係は存在するか」というものである。

2.透明性

「経験についての内観は、経験それ自体の性質を明らかにせず、ただ経験対象の性質を明らかにするのみである」という表象主義の考えは、知覚経験の「透明性(transparency)」と呼ばれる。ここには次の二つの考えが含まれている。

():われわれは経験の対象について気づく(aware of)

():われわれは経験それ自体の特性については気づかない。

マイケル・タイはこれらを二つとも主張しているが、クレインはこれらが誤りであり、したがって表象主義も誤りであると論じる。

()について:

確かに、われわれが通常の典型的な知覚において気づくのは事物それ自体である。だがこの事実は、何か青いものの知覚について内観を行うすべてのケースにおいて、われわれは実在の青色を「透かし見ている(see right through to)」ということを含意しない。もしそれを含意しているのであれば、すべての内観可能な経験は、実在の対象およびそれがもつ性質の実在例化との関係を含んでいるということになる。しかし、幻覚は明らかにそのような関係を含んでいない。したがって、「すべての知覚経験において、われわれが直接にアクセスする性質は外的事物の性質である」というタイの主張は誤りである。

 反論:タイはこれに対し、「幻覚経験においてわれわれが気づくのは、経験内容の特定の諸相である」と反論する。タイは、通常の知覚においても幻覚においても知覚者は同じ心的状態にあると考えており、彼は内観における気づきの対象をこの心的状態とみなす。では、経験「内容」とは何か。タイは知覚を命題的態度と考えている。それゆえ、経験内容とはthat節で表現されるような命題(命題群)である。これを額面通りに受け取れば、内観において、われわれは命題の諸相に気づいているということになる。確かに、「経験が何か青いものを表象している」という事実にわれわれが気づいているとしても、このこと自体は、われわれが気づいている何か青いものが存在している(=例化されている)ということを意味しない。(この反論については4節で論じる)

()について:

 ()に反して、知覚者は経験対象だけではなく、経験それ自体の特性にも気づくことができる。眼鏡レンズの度を大きく変更すると、事物はぼやけて見える。この経験を内観すると、〈ぼやけているという性質〉(blurriness)がどこかに例化されているように思われる。この性質は、経験対象に帰せられるのではなく、経験の仕方に帰せられるべきである(=経験対象がぼやけているのではなく、対象がぼやけた仕方で経験されている)。

 反論:タイは再び表象に訴え、この場合、経験は「事物の境界が曖昧である」という表象内容をもっていると主張する(=経験の仕方ではなく、経験対象の境界に〈ぼやけているという性質〉を帰する)。

 再反論:しかしクレインは、このタイの挙げている内容は現在の事例と無関係であると再反論する。われわれは、事物をぼやけているものとして経験する場合と、事物をぼやけた仕方で経験する場合とを区別すべきである。目下関連があるのは後者のケースである。後者では、経験の仕方それ自体に〈ぼやけているという性質〉が例化されている。

以上より、上記の透明性テーゼは誤りである。確かに通常の経験は透明であるが、幻覚経験の可能性は透明性テーゼを経験一般に対して適用することを妨げる。

もし表象主義が透明性テーゼにコミットしているならば、表象主義は誤りである。だが、クオリア理論は表象主義の単なる否定ではないため、これはクオリア理論が真であることを含意しない。クオリア理論は、表象主義を否定した上、その誤りをクオリアによって説明しようとするものである。(クオリア理論に関しては6節で再び扱う)

透明性テーゼの()()の否定は、次の二つの問いを生じさせる。

()の否定から:幻覚経験においてわれわれが何を経験するのかをどう説明すべきか。

()の否定から:経験において例化されていながらも外的対象のものではない性質をどう説明すべきか。

第二の問いは錯覚論法へ、第一の問いは幻覚論法へとわれわれを連れ戻す。

3.知覚の問題

錯覚論法および幻覚論法が議論する価値のあるものかどうかについてはオースティンを始めとして懐疑的な意見があるが、ここではそうした意見には関わらず、ロビンソンとスミスの近年の議論を採り上げる。

錯覚論法について

錯覚は「物理的対象自体は現実に知覚されているが、それが実際にそうであるのとは異なって知覚的に現れるような知覚的状況」と定義できる。

錯覚論法は次のような現象原理(Phenomenal Principle)を利用している。

現象原理:何かがFという可感的性質をもっていると知覚者が経験的に気づいているときには、実際に性質Fをもっており、かつ、知覚者が気づいているところの何かが存在している。

センスデータ論者は、知覚者が気づいているのは、公的な物理的対象ではなく、その存在が経験に依存するような対象(=センスデータ)であり、このセンスデータこそが性質Fをもっていると考える。

錯覚論法はしばしば現象原理を否定することで退けられる。知覚が表象の一形式であるならば、信念や判断がそうであるように、何らかの性質に関する表象がその性質の実在例化を含意すると考える必要はないのではないか。

副詞理論の主張者は、センスデータを否定しつつ、性質Fは経験それ自体が副詞(‘bluely’など)で表されるような形でもつものであると論じている。(副詞理論とクオリア理論の関係性については最終節で論じる)

幻覚論法について

幻覚は「心から独立な実在する対象の知覚とまさに同じように見えながらも、実際にはそうした対象が実在していないような知覚的状況」と定義できる。

もし幻覚が通常の知覚と同じ基本的種類の心的状態であるならば、知覚経験は心から独立な対象との関係ではないということになる。

これに対する伝統的な解答は、再びセンスデータに訴えるものである。知覚はセンスデータとの関係である。

他の解答として、知覚がそもそも関係であるということを否定することも可能である。知覚が関係ではなく世界の表象であるならば、XYを知覚的に表象しているからといって、Yが存在するということにはならない。これは志向説である。

さらに他の解答として、通常の知覚と幻覚が同じ基本的種類の心的状態であるということを否定することも可能である。通常の知覚は世界との関係であり、幻覚は単なる現れであるか単なる表象である。これは選言説である。

主観的には、経験は明らかに「世界への開かれ(openness to the world)」であり、知覚はその対象との関係であるように思われる。錯覚論法および幻覚論法はこれに異を唱えるものである。

知覚の中心的な問題は、錯覚や幻覚の可能性を所与として、見かけ上は成立しているようにみえるこの「知覚の関係性」をどう説明するか、つまり、知覚的関係は存在するかという点にある。

センスデータ理論、選言説、志向説は、それぞれこの問題に独自の解答を試みたものとみなすことができる。

センスデータ理論……知覚はセンスデータとの関係である。

選言説……通常の知覚は心から独立な対象およびそれがもつ性質との関係であり、錯覚・幻覚はそうではない。両者はその基本的種類を異にする。

志向説……知覚は関係ではない。知覚は表象である。


p.281(邦訳p.331

・〔当段落では以上の議論に対する総括がなされる〕。したがって、われわれは次のことに同意してもよい。すなわち、われわれは大規模複製の可能性に煩わされずに、自らの単一の世界像(諸々の個別的な事物および出来事の像)を作り上げるのであり、その際にしばしば、われわれが語る状況および対象の極めて大まかな位置づけで満足し、固有名に対して――さらなる説明なしに〔=固有名を支える記述を明示化することなしに〕――多大な個別化の負担を負わせる、ということに。

・こうしたことをわれわれは、〔発達過程における大人からの様々な教示をそのまま鵜呑みに信頼するように〕特定の経験の共同体と教示の諸源泉に信頼を置いて、極めて合理的に行う。しかし、われわれが作り上げるのは単一の統一的な構造、そのなかにわれわれ自身が場所をもち、すべての要素が直接あるいは間接に関係しあうと考えられる共通の時空的枠組みである。

・同定指示によって、われわれは他人の報告と物語を、自身のそれと一緒に、経験的実在についての単一の物語に嵌め込む〔ここでの「経験的実在についての単一の物語」は、「物語」というよりむしろストローソンがこれまで「歴史」と呼んできたものであろう〕。この嵌入〔物語を歴史と関係づけること〕は究極的に、それらの物語のなかに現れる諸個別者をわれわれ自身が場所を占める単一の時空的体系のなかで関係づけることに基づく。

p.291(邦訳p.341

・次に、以上のような諸個別者に関する単一の図式の不可避性ないしは必然性について考えよう。確かに、それが単一の時空的体系を形成するのは、経験的実在についての偶然的な事柄にはみえない。

・話し手がある種の事物について、ならびにその事物に生じたある種の出来事について語り、続いて、その事物がどこにあるのか、その出来事がいつ起こったのかについて尋ねられたとしよう。だが、彼は「私はそのことについて知らないのではないが、それらはわれわれの時空的体系にはそもそも属さず、ここから何がしかの距離において、あるいはいまから何がしかの時間間隔において生じたのではない」と答えたとする。すると、われわれは彼の返答を解釈し、「当該の出来事は実際には(really)生起しなかったし、当該の事物は実際には存在しなかった」と言うだろう。このように言うことで、われわれは自らが実在(reality)の概念をいかに扱っているのかを示すであろう。

・しかしこれは、われわれの経験の本性が根本的に異なっていたとしても、われわれの〔実在〕概念は異なっていなかっただろう、ということではない。(ストローソンは後に実在概念が異なりうるいくつかの仕方について探求するし、彼が探求しない別の仕方も存在する)。われわれがここで扱っているのは、われわれが語ったり考えたりする仕方の全体を条件づけるものである。われわれがそれを偶然的ではないと感じるのはこの理由による。〔われわれが有する単一の時空的体系と関係づけられることによってのみ実在概念が適用されうるということは必ずしも不可避なことではないが、われわれの語り方や考え方の全体を条件づけるものについて探求するという文脈においては、それは不可避に感じられる〕。

・しかし、以上の事実は、或る個別者の概念についてのより深い分析に着手することや、まったく別の諸可能性を考察することを妨げるものではない。

p.301(邦訳p.351

・しばらくの間、そうした諸可能性は考慮に入れず、われわれ自身の概念図式についての問いを提起しよう〔次節以降〕。しかしまず初めに、ある種の諸困難が錯覚に過ぎないことを再び強調しておこう。

(1)大規模複製可能性について。これは既述の論点の繰り返しにすぎないので省略。

(2)これは(1)とは異なるが、無関係ではない誤りである。それはすなわち、ここといま(hear-and-now)は準拠点を与えるということを重々承知していながら、「ここ」、「いま」、「これ」のような〈発話中心語(utterance-centred words)〉がそれらの個々の使用者に対して私的で個人的な何かを指示すると想定する誤りである。

このような誤りを犯す哲学者たちは、各人に対して任意の瞬間に、その瞬間を基礎とした単一の時空的ネットワークがいかにして存在するかを理解している。しかしまた彼らは、この基礎の上に、各個人に相対的な数多くのネットワーク、数多くの世界が存在すると考える。彼らは、準拠点を私的なものとすることで、公的な準拠点を自ら奪い去るのである。彼らは〈われわれ各人が各人のなかに各人固有の体系をもつ〉と考えるため、〈われわれがその体系のなかにいる〉ということを認めることができない。

これは、彼らが構築する概念図式がわれわれ自身の概念図式を理解する役に立たないかもしれない、ということではない。しかし、われわれが関係しているのはわれわれ自身の概念図式である〔この二つの文での「われわれ自身の概念図式」が(a)「われわれ各人がもつ概念図式」を意味するのか、それとも(b)「われわれが共通にもつ概念図式」を意味するのかは幾分不分明である。(a)前者の解釈を行うのであれば、「彼ら」を「自分とは異なる他者」と読むべきであろう(これは少々不自然な感がある)。このとき上の二文は次のように換言されうる。上の哲学者たちのように考えるならば、他者がそれぞれ構築する概念図式を自分自身の概念図式を理解するための一助とすることはできるかもしれない。しかし、それぞれの概念図式は私的なものに過ぎず、自分自身の概念図式を超越することはできないのだから、発話中心語がもつ公共性を説明することは解決困難な問題となる。それゆえ、われわれがもつ概念図式を各人に相対的な「私的なもの」であると考えず、初めから「公的なもの」であると考える方が遥かにリーズナブルである。(b)後者の解釈を行うのであれば、「彼ら」を「上の誤りを犯す哲学者たち」と読むべきであろう。このとき上の二文は次のように換言されうる。上の哲学者たちが考える私的な概念図式は、たとえ誤っているとしても、ストローソンが考える公的な概念図式を理解するための一助となりうるかもしれない。したがって、それを考察してみることも無駄ではないかもしれない。しかし、ストローソンが受け入れるのは公的な概念図式である。したがって、そこに汲み取るべき示唆があるとしても、私的な概念図式という発想までをも受け入れる必要はない〕。それゆえ、〈「ここ」、「いま」、「これ」、「私」、「あなた」がわれわれの共有言語の語であり、それらの語は、各人が他者に対して、誰が自分と一緒にいるのか、自分は何について語っているのかを指し示したり、指し示すのを助けたりするのに使うことができる〉という月並みな言い回しをわれわれは放棄すべきではない。


p.251(邦訳p.291

・しかし、なぜある共通準拠点への他の種類の関係ではなく、時空的関係に優越性が与えられねばならないのか。すでに同定された対象Oが与えられたとき、問題となる関係に対して形式的に要求されるのは、それが次のような種類のものであるということだけである。すなわち、特定の記述に適合し、その関係によってOと関係づけられる対象が事実としてただ一つ存在する、ということをわれわれが知りうるような種類のものであるということだけである。或る事物が別の事物との間にもちうるほとんどすべての関係はこうしたあまり厳密でない要求を満たしうるのではないか。例えば、或る男の父方の祖父である男は一人以上ではありえない〔血縁関係〕、ということをわれわれは〔経験的にしか知りえない実際の個別者間の空間的関係とは違って〕教わらなくとも知っているのではないか。

p.252(邦訳p.301

・これに対しては次のように答えられる。時空的関係は独特の包括性(comprehensiveness)と浸透性(pervasiveness)を有しており、それらが、そのなかで個別者についての個別化的思考を組織しうる枠組みとして役立つ唯一の資格をこの体系に与えている。

・すべての個別者は、この体系内に場所をもつか、この体系内に場所をもつ他の種類の個別者に言及することによって一般に同定されうるような種類のものである。また、この体系内に場所をもつすべての個別者は、そのなかに唯一の場所をもつ

・これらがすべて成立するような体系は他にはない。実際、この体系と他の体系との対立は偽の対立である。われわれが同定記述を作るときに頼る異種の諸関係は、時空関係の体系を土台としている。他の大部分の諸関係は時空的要素を組み込んでおり、物体間の時空的相互作用、すなわち相対的運動を包含しているか、それによって象徴されている。〔先例の血縁関係は、出生に関する成員間の時空的関係をひとつの土台としており(血縁関係に含まれる婚姻関係や養子縁組関係はこの限りではないが)、しかもわれわれはそうした関係を家計図のように空間的関係によって象徴的に理解している〕。

p.261(邦訳p.302

・或る一般的疑念が残るかもしれない〔以下、当段落はこの疑念の定式化〕。当該の個別者に関する個別化的事実が知られるならば、同定の形式的条件は満たされる。しかし、なぜこのような個別化的事実が当該の個別者を他の諸事項に何らかの仕方で関係づけるのは、統一的な知識の枠組みのなかにおいてでなければならないのか。

・「~ところの唯一のもの(the only …)」、「~ところの最初のもの(the first …)」のような句で始まり、その適用が一意的であることを示す記述を作ることはできる。こうした記述を「論理的個別化記述」と呼ぼう。論理的個別化記述には一般に、人物の固有名、場所の名称、日付も含まれ、それが適用される個別者を統一的枠組み内の他の諸事項と関係づけるだろう。あるいは、直示的表示を含むか、その指示対象を決定する助けとして記述の使用背景に何らかの仕方で頼るだろう。〔それゆえ、これらの諸特性を含んだ論理的個別化記述は、それが指示する個別者を統一的枠組みへと――間接的にあるいは直接的に――組み入れるものになっている〕

・しかし、そのような諸特性をまったく含まない論理的個別化記述を作ることもできる。これを「純個別化記述」と呼ぶ。

◇それらの諸特性を含んだ論理的個別化記述の例

「クラスで一番の少年(the first boy in the class)」(「どのクラスか」「何における一番か〔?〕」が使用背景に依存)

「十九世紀イギリスで生まれた最初の犬(the first dog to be born in England in the nineteenth century)」(「日付」と「場所の名称」を含む)

◇純個別化記述の例

「海上で生まれた最初の犬(the first dog to be born at sea)

「後に或る王の命を救うことになる海上で生まれた唯一の犬(the only dog to be born at sea which subsequently saved a monarch’s life)

・また、「半純個別化記述」のクラスも認められる。それは、発話の時点より以前ないしは同時に存在するものに限られるという意味において、その適用を決定するのに発話の背景に依存するものである。「これまで(so far)」などを含んだ純個別化記述がこれに当たる。

◇半個別化的記述の例

「かつて生存した最も背の高い男(the tallest man who ever lived)

・こうした純個別化記述ないしは半純個別化記述が適用をもつことをわれわれはしばしば知りうる。それゆえ、それらが適用をもつことを前提すれば、話し手および聞き手がその記述を受け入れることは、各々が唯一にして同一の特殊者をそれによって理解することを保証するのに十分である。したがって、個別者についてのわれわれの個別化的思考は、当の個別者を単一の統一的枠組みに組み入れることを含む必要はない。

p.271(邦訳p.321

・上述の一般的疑念を表明するような者は、非実践的な理論家の立場へと自らを置いている。このような者への応答はいくつも考えられる。

・聞き手と話し手が、純あるいは半純個別化記述に関する一致によって、或る個別者を同定したと主張し、さらに、当該の個別者に関しては他に何も知らないという主張を付け加えたとする。つまり、①彼らは当該の個別者を――どれほど広範なものにせよ――何らかの限定された時空的範囲内に位置づけることができなかった。あるいは、②そのように位置づけられた他の諸事項に当該の個別者を何らかの仕方で関係づけることができなかった。あまつさえ、③彼らはその個別者を、共通の時空的枠組みのなかの或る事項とその個別者とを結びつけうるような、何らかの談話の機会に関係づけることさえできなかった。例えば、彼らのどちらかがその個別者について権威をもって告げられていた、と言うことさえできなかった。〔③を理解するために、①および②の状況にあるが、③を免れているようなケースを考えよう。例えば、話し手Aが聞き手Bとは別の人物である古生物学者Cから、「人類が初めて目にしたアノマロカリスの化石が誰によっていつ発見されたかを私は知っている」と告げられ、その談話について聞き手に語る場合(ABも古生物学の素人であり、アノマロカリスについて、それが古代生物であるということ以上は何も知らないと仮定)を考えることができる(「人類が初めて目にしたアノマロカリスの化石」は純個別化記述である)。この場合、話し手は「その個別者について権威をもって告げられていた」と言うことができる。ABは①および②の状況にあるが、ACとの談話の機会に関係づけることで、理論的にはその個別者を共通の時空的枠組みのなかに位置づける可能性を手にすることができ、③を免れることができる〕。

・一般的に言って、彼らは自分たちが語っていると主張した個別者を統一的枠組みに結びつける能力を否認し〔①および②〕、そのような結びつきを認識する能力を否認したのである〔③〕。これらの否認から、われわれは、〈聞き手と話し手は結局のところ一般的蓋然性以上にその純個別化記述が適用をもつと考える根拠を事実上もたなかった〉と推論したくなるだろう。

・他の論理的個別化記述と同様に、純個別化的記述は、それに適する候補者が存在しないときだけではなく、等しく適する候補者が二つないしそれ以上存在する場合にもその適用に失敗する。例えば、「海上で生まれた最初の犬」という記述に対し、海上で生まれた犬が存在しない場合だけではなく、海上で最初に生まれた犬は同時に生まれた二匹の犬だった場合〔帝王切開で?〕にも、その適用は失敗する。記述を詳細なものにすれば、第二種の適用失敗〔適する候補者が二つ以上の場合〕の蓋然性は減少するかもしれない。しかし、そのとき第一種の適用失敗〔適する候補者が存在しない場合〕の蓋然性は増加するかもしれない〔大抵の場合、内包が増加すれば、外延は減少する〕。

・一方の危険性を増加させないで他方のそれを取り除くように記述を詳細化する唯一の安全な方法は、世界の拡がりとその歴史についてのわれわれの実際の知識を生かすことであろう。しかし、これをする限り、当の記述を統一的枠組みに結びつけることが不可能であると真面目に主張することはできない。だとすれば、これは次のことに異議を唱えるのと同じである。すなわち、当該の個別者が時空的枠組みのなかの同定された諸事項に対してもつ関係について何かが知られなくとも、その個別者についての個別化的事実を知ることは可能である、ということに。

・たとえ、工夫を凝らしてこの反論を逃れるようなケースを作り出しえたとしても、他の反論が持ち上がるだろう。当該の個別者を、諸個別者の知識の一般的な統一的枠組みから完全に切り離すような仕方で、特殊者同定の形式的条件を満たしえたとしても、その達成は特有の仕方で無益なものとなるだろう。その個別者についてのわれわれの知識がこの完全に分離された性格を保持する限り、その個別者はわれわれの知識の一般的図式のなかで何の役割も果たさないだろう。例えば、われわれは〔既得の統一的枠組みとは独立の〕新しい一般的真理を学ばない限り、その個別者について何も新しいことを学びえないだろう。

・この可能性はひとつの可能性ではあるが、われわれの個別的諸事物の知識の一般的図式において何ら重要な役割を演じることはない。それゆえ、この問題をこれ以上追及する必要はない。

3

p.231(邦訳p.261

・このような理論的解決が得られるという事実は、われわれの概念図式についての極めて重要な事実である。それはその図式の構造について何かを示している。また、それは同定における実践的諸要件と結びついている。

p.232(邦訳p.262

・この実践的要件との結びつきは明白ではないかもしれない。

・聞き手による同定の一般的諸要件は、もし聞き手が、指示されている個別者が次のような個別者と同一であることを知るならば、満たされるように思われる。その個別者とは、聞き手が、それが指示されている個別者であるという事実に加えて、その個別化的事実(individuating fact)を知っているような個別者である。或る個別者についての個別化的事実を知るとは、しかじかの事柄がその個別者については真であり、他のいかなる個別者についても真ではないということを知ることである。〔つまり、個別化的事実とは、当該の個別者にのみ排他的に適合するような事実である〕。

聞き手による同定の一般的要件

=聞き手が、〈指示されている個別者A〉は〈聞き手がそれについて、個別化的事実およびA=A’という事実を知っているような個別者A’〉と同一であるということを知っていること。

・自らのすべての知識を明確に表現できる者は、或る個別者にその個別化的事実を表現する記述を与え、かつ、その個別者がいま指示されている個別者と同一であることを同語反復的でなく付加することによってのみ、上の個別者同定条件を満たすだろう。しかし、まさにこの仕方で自らの知識を明確に表現する能力が、話し手が誰(何)を指示しているのかを本当に知るひとつの条件であると主張する必要はない〔この否定の強調点は「ひとつの」という部分に係っているように思われる。つまりこの文は、〈当該の能力は、他の並立する条件を許すようなひとつの特殊条件である必要はない〉ということを含意しているように思われる〕。それゆえ、これは非直示的なケースにおける聞き手による同定の一般条件である。こうした条件を満たすことは話し手にも要求される。

・単なる「物語相対的」な同定を排除するためには、当該の個別化的事実は次のようなものであってはならない。すなわち、その事実の言明が、当該の個別者についての誰かの談話(discourse)に言及することでその個別者を同定するということを本質的に含んでいるようなものであってはならない(あるいは、それへの言及によって当該の個別者が同定されるような他の個別者についての誰かの談話に~(略)~ならない)。

p.233(邦訳p.271

・これらの条件〔非直示的同定の一般的条件および物語り相対的同定の排除条件〕は実践においてどのように満たされるのか。

・[2]で議論された非直示的同定についての不安を静めるような記述〔直示的に同定しえない個別者(およびその範囲)を直示的に同定される個別者(およびその範囲)へと一意的に関係づける記述〕を与えられる者はみな、これらの条件を満たすことができる。

・〔直示的に同定しえない個別者に関する個別化的事実は、その個別者と一意的に関係づけられる直示的に同定される個別者についての個別化的事実から派生的に与えうる。この後者の個別者についての個別化的事実は、その知覚的識別を伴う直示詞を含んだ記述によって与えうる。それゆえ、〈指示された個別者〉が〈このような仕方で個別化的事実の知られた個別者〉と同一であると話し手ないしは聞き手が知るならば、非直示的同定の一般的条件を満たすことができる。物語相対的同定の排除条件が満たされるのは、指示される個別者が話し手の談話への言及に閉じ込められるのではなく、直示的に同定される個別者と関係づけられることから明らかである〕。

・しかし、その不安は実践的には非現実的なものであることが認められた。それゆえ、上述の理論的解決と実践的要件の充足との結びつきはいまだ明らかではない〔その不安を静めるような記述を与えられる者が上の諸条件を満たすことができるとしても、その不安が実践上非現実的なものであるならば、実践においてそうした記述を与える動因がそもそも存在しないということになる〕。

p.241(邦訳p.281

・確かに、われわれは個別者のすべてについて、それを指示の現状況(およびその状況に現れる対象や人)に一意的に関係づける個別化的事実を知らないし、知る必要もないのではないか。もちろん、われわれは実践において、こうした関係づけを明示的にそうしばしば行うわけではない。しかし、この事実は問題ではない。会話の状況や参加者相互についての背景知識は、一般に多くのものを当然のこととして〔暗黙のうちに〕含んでいるからである。またときにわれわれは「物語相対的」同定に満足し、語られている個別者を世界とその歴史についてのわれわれの知識の枠組み(framework)に直接はめ込むことを望まないかもしれない。

p.242(邦訳p.282

・この知識の枠組みとは、p.222(邦訳p.252)に既出の時空的諸関係の体系と同じものである。すなわち、われわれ自身およびわれわれの直接的環境がそのなかに場所を有し、その各要素が他のすべてと、それゆえわれわれ自身およびわれわれの直接的環境と一意的に関係しているような諸個別者の知識の統一的枠組みである。

・われわれはつねにこうした枠組みをもっており、同定された個別者をわれわれのストックに加える唯一の有効な手段として、それを恒常的かつ本質的に使用している。われわれが学び知るどの個別者もこの枠組みと何らかの仕方で同定的に結びついている、ということは必然的真理である。

・「物語相対的」同定の場合でさえ、語り手の同一性を通して枠組みとの結びつきは残る〔「誰々によって語られた談話中の何々」のように〕。

・われわれは暦、地図、座標系などによって枠組みを体系化するが、そうした体系の使用はわれわれがそのなかで自らの場所を知っているということに依存している〔例えば、物語のなかの架空の地図や架空の暦をただ眺めるだけであれば、そのなかでの自らの位置を知る必要はないかもしれない。だが、これは暦や地図を使用して何かを行う(予定を立てる、目的地を辿る)というケースからは逸脱している。あるいは、架空の地図でさえ、それを地図として眺めるためには、自身をそのなかへと想像的に定位し、地図上の様々な図像間の関係をトラッキングすることが必要かもしれない。だとすれば、こうした架空のケースにおける地図の認知を、日常的な使用事例から派生的に理解することも可能であると思われる〕。このような体系は、物語相対的な同定から完全な同定へとわれわれが抜け出すために役立つ〔例えば、談話中の「或る男」を「○年△月◇日◎時に渋谷の××で会った男」と再記述するような場合、その暦上の時刻と地図上の位置は、われわれの現状況と一意的に関係づけられる〕。

・それ自体では〔個別者に対する〕位置づけを決して行わない記述も、個別者の極めて広範な時空的範囲のなかでは、個別化するものとして知られるかもしれない〔「極めて広範な」の含意が不分明であるが、この文はおそらく以下のように換言できる。それ自体は個別者の時空的位置づけを含んでいない記述であっても、個別者の時空的範囲を画し、その範囲の内部で個別者を走査することで、当該の記述が適合する唯一の個別者が存在することを話し手と聞き手が知るならば、個別化を行う記述として認められるかもしれない〕。そのとき要求されるのは、その範囲それ自体が枠組み全体のなかに位置づけられることである。〔p.271(邦訳p.321)を参照すると、「極めて広範な時空的範囲のなかでは」は「どれほど広範なものであろうと、或る限定された時空的範囲のなかでは」と読むのが穏当だと思われる〕

p.202(邦訳p.231

・この議論に対して、話し手と聞き手の両者が同定記述の一義的適用についての知識をもっていることは必要ではないという答えが返ってくるかもしれない。この立場によれば、同定が保証されるために必要なのは、話し手の与える記述をもとにして、話し手の指示する個別者が事実上何であるかを聞き手が知ることだけである。そのための条件は次のものである。

話し手と聞き手はそれぞれ、話し手が与える記述が適用されるただ一つの個別者について知っている。そして、各々は、他方もこのようなただ一つの個別者について知っており、しかもその個別者は自分が知っている個別者と同一であると想定する決定的理由をもっている。

①が完全には充足されないとしても、各々は、一人(話し手)が指示している個別者と、その一人が指示していると他の一人(聞き手)が解釈する個別者とが同一であると考える決定的理由をもっている。

〔②の場合、「他の一人」は、もう一方が指示していると自身が解釈する個別者を知っていることに加えて、その記述が適用される別の個別者を知っていてもよい。したがって②は、①における「ただ一つの個別者について」という条件の聞き手側における充足が不成立であっても良いような、より緩い条件となっている〕。

p.211(邦訳p.241

・この答えは、非直示的同定の実践的な成立可能性の条件を提示している。それゆえ、〔非直示的同定についての懐疑がたとえ大規模複製可能性という論法によってその理論的な根拠を保証されたとしても、〕その答えは当の懐疑の実践的な根拠のなさを示すのに十分である。

・しかし、この答えは、あまりに多くを譲歩し〔譲歩については二段落後で取り上げられる〕、あまりに少ししか説明しない。それはわれわれが上の決定的理由を実際にもつ可能性を説明していないし、同定に関するわれわれの思考の一般的構造への手がかりも与えていない。もし可能ならば、いまの議論(大規模複製可能性論法)にはそれ自身が定位している理論的な観点から答えたほうがよい。そうすることで、思考の一般的構造について何かを学ぶことができるかもしれないからである。〔いまの議論に実践的な観点から答えるだけでは、思考の一般的構造について何かを明らかにすることはできない〕。

p.212(邦訳p.242

・いまの議論に理論的な観点から答えるためには、非直示的同定の状況がいかにして直示的同定の状況と結びつけられるかを示せば十分である。いまの議論は、直示的同定が不可能なときには、同定は純粋な一般名辞による記述に究極的には基づかねばならないと想定している。しかし、この想定は誤りである。なぜなら、当該の個別者は、それ自体が直示的に同定されえないとしても、直示的に同定可能な他の個別者に当該の個別者を一意的に関係づける記述によって、同定されるかもしれないからである。個別者の範囲の問題に関しても、同様の関係づけによって答えられるかもしれない。大規模複製可能性は、同定の観点からすれば、このような仕方で理論的に克服できないようないかなる理論的困難も生み出すことはないのである。

p.221(邦訳p.251

・いまやわれわれは、なぜ前の答え(p.202(邦訳p.231))が譲歩しすぎているのかを理解することができる。複製可能性論法に直面したとき、前の答えは、非直示的同定が問題となる場合、われわれは同定記述が事実上一意的に適用されることを決して確信しえないと譲歩した。さらに、そのことは重大な問題ではないと主張した。なぜこれが重要な問題ではないのかについて、前の答えは、〔実践的な観点から同定の成立可能性の条件を示すことで満足し、〕正確には何も述べていない。しかし、非直示的同定が直示的同定の上にしっかりと支えられているかもしれないとすれば、すなわち、個別者の同定記述は究極的には直示的要素を含んでいるかもしれないとすれば、われわれは次のことを理論的な観点から理解できる。すなわち、複製可能性論法は、〈同定記述が事実上一意的に適用されることをわれわれは確信しえない〉と示すような力をまったくもたない、ということを。したがって、われわれは前の答えがなしたような譲歩を行う必要はないのである。

p.222(邦訳p.252

・では、われわれが指示しうるすべての個別者について、その指示がなされる会話の参加者たちおよびその直接的環境(immediate setting)へとその個別者を一義的に関係づける記述〔直示的に同定しえない個別者(およびその範囲)を直示的に同定される個別者(およびその範囲)へと一義的に関係づける記述〕が存在すると想定することは妥当か。そうした諸関係の単一の体系が存在すると主張することは妥当か。この問題に対する答えはひとまず極めて一般的な次のような形をとる。

・時間と空間のなかに存在するすべての個別者に対して、そのような体系が存在すると認める必要がある。この体系とは、すべての個別者が他のすべての個別者に対して一義的に関係しあう空間的・時間的諸関係の体系である。われわれは直示的同定によって〈共通の準拠点〉と〈空間的方向の共通軸〉とを規定することができる。これらを使って、空間と時間のなかの他のすべての個別者をわれわれの参照点に一義的に関係するものとして記述することが理論的に可能となる〔共通の準拠点によって〈いま・ここ〉が定まり、その〈ここ〉を原点とする軸を設定すれば、時空的個別者に関してその時空上の位置を一義的に規定することが少なくとも理論上は可能である〕。

・おそらく、すべての個別者が空間と時間の双方のなかにあるというわけではない〔ここでストローソンが空間的にのみ、あるいは時間的にのみ存在するものとしてどのような個別者を想定しているのかは不明である〕。しかし、そうした個別者が、時空双方のなかに存在する或る個別者に何らかの仕方で一意的に関係すると想定することはおそらく妥当である。

この夏休みから、ストローソンの『個体と主語』の読書会を始めることになりました。エヴァンズやマクダウエルが繰り広げる議論の礎石にあたる極めて重要な書物なので、気合を入れて読んでおります。最初の担当箇所のレジュメを書いたのでアップしておきます。

P. F. Strawson, Individuals

pp.17-30(邦訳pp.20-36

第一章 物体

1 個別者の同定

2

p.171(邦訳p.201

・前項でストローソンは、話し手による個別者の〈同定指示〉は、聞き手による同じ個別者の同定を必ずしも含意しないと指摘した。われわれは、話し手によって同定指示された個別者に対する聞き手の側での同定がなされて初めて、話し手は個別者を〈同定する〉、と述べうる。では、聞き手による同定の条件は何なのか、換言すれば、話し手によって同定指示された個別者を、聞き手もまた知っていると言えるためのテスト(以下、本レジュメでは〈同定テスト〉と呼ぶ)は何なのか、これが本項以降で探求すべき課題である。

・われわれが求める同定は相対的同定に留まるものであってはならない。相対的同定とは、話し手が同定指示する個別者を、話し手が語った先行する物語のなかに現れる個別者の範囲と相対的にのみ、聞き手が同定するような、そうした場合における同定である。例えば、話し手が事実だと主張する次のような物語を聞き手に語ったとする。「或る男と或る少年が泉のほとりに立っていた。その男は一杯飲んだ」。聞き手は、一番目の文の「或る男と或る少年」という二つの個別者の範囲から、二番目の文の「男」という個別者を、その「男」という記述を手がかりとして同定する。しかし、これは単に話し手の物語のなかにおける同定にすぎず(物語相対的な同定)、歴史のなかにおける同定ではない〔これはstoryhistoryの対句だが、「歴史」という語にこの段階までで明確な規定を与えているわけではない。おそらく、ストローソンは「歴史」によって時空的な位置づけをもつ個別者としての出来事の総体を意味しているようである〕。〔例えば、その物語が話し手によってのみ目撃された出来事を語ったものだとしよう。話し手の指示した個別者が目の前に現れたとしても、聞き手はさらなる手がかりなしに、その目の前の個別者と物語のなかの個別者とを同定することはできないだろう〕。

p.181(邦訳p.202

・われわれの求める同定テストは相対的同定を除外するほどに厳しいものでなければならない。上述の例においても、確かに聞き手は個別者を同定することができる。だが、それは話し手によって語られた〈物語〉を通してでしかない。ストローソンはこれを〈額縁(frame)〉の比喩を用いて表現する。聞き手は話し手によって描かれた絵のなかの人物像を同定し、その個別者を自身の世界の全体像のなかに位置づけることができる。しかし、その聞き手は、額縁を通さずにその人物を自身の世界の全体像のなかに位置づけることはできないのである。

p.182(邦訳p.211

・求められている同定テストのひとつの十分条件――必要条件ではない――は、さしあたり大雑把に述べると次のようになる。すなわち、聞き手は、指示されている個別者を、(見る、聞く、触れる等によって)感覚的に識別することで、それがその個別者だと知ることができなければならない。〔この条件が満たされるならば同定は成立するが(十分)、同定の成立する場合に必ずこの条件が満たされていなければならない(必要)というわけではない〕。

・この条件を少し緩めて、指示の瞬間にはその個別者が感覚的に識別できないが、一瞬前には識別できた場合をも包含することにする。例えば、「その車は非常に速く走っていた」「その音は耳を聾するばかりだった」など、「その(that)」が「この(this)」よりも適切な直示詞であるような場合である。そうすると、上の十分条件を満足するのは、現在知覚可能であるか、あるいは一瞬前に知覚可能であった個別者の場合に限られる〔以下、本レジュメではこうした個別者とその範囲を、省略的に〈知覚可能な個別者〉および〈知覚可能な個別者の範囲〉と呼ぶ〕。

・この種の同定は、知覚可能な個別者の範囲に属するただ一つの個別者にのみ適用されるような言語表現の使用を伴う。この言語表現は典型的には直示詞(demonstratives)の使用を含む。この同定の第一条件が満たされるとき、聞き手は指示された個別者を直接的に位置づける(directly locate)ことができる、と言おう。このケースを個別者の直示的同定と呼ぶ。

p.191(邦訳p.221

・個別者の同定のすべてが直示的同定によって尽くされるわけではない。なぜなら、直示的同定によって満たされるのは、同定テストの十分条件にすぎないからである。この事実が古くからある心労〔すなわち、非直示的同定の可能性についての懐疑〕の根拠となってきた。だが、その心労は実践上においても理論上においても根拠がない。その根拠のなさの理由は結局ひとつに帰する。いまやこの心労の本性と根拠のなさの理由とが明らかにされねばならない。

p.192(邦訳p.222

・個別者の直示的同定は必ずしも容易ではなく、様々な誤りの誘因をもつ。しかし、直示的同定の場合には、少なくとも、〈個別者の範囲の同一性〉、つまり〈そこにおいて同定がなされる宇宙の区域の同一性〉は明晰(clear)である。この範囲は知覚可能な個別者の範囲であり、それはまさに現在(および近過去)において知覚的に現前する全風景である。どの風景について語られているのか〔範囲の明晰性〕については、たとえそのどの部分について語っているのか〔範囲の判明性〕については問題があろうとも、問題はありえない。範囲の判明性の問題については、われわれはそれを解決するための言語的手段を有している。〔たとえば、直示詞に付加される記述を細かくしてゆくことによって、当該風景のなかの語られている部分を他の部分から区別することは可能である〕。

・知覚可能な個別者の範囲の限界が話し手と聞き手で異なっている可能性があるが、ここから生じる問題の解決をストローソンは読者の手に委ねる。〔「限界」ということでストローソンが何を意味しているのかは必ずしも明らかではない。それは、話し手と聞き手で、例えば、置かれている視野が完全には重なりえない(話し手と聞き手は同じパースペクティヴを共有することはできない)ということだろうか。それとも、たとえパースペクティヴを共有したとしても、(例えば、優れた音楽家は素人が識別不可能な音でも識別可能なように)話し手と聞き手で識別可能な個別者の範囲が異なるということだろうか。つまり、ストローソンの言う「限界が異なっている可能性」とは、話し手と聞き手のもつ知覚野の周辺における境界の部分的不一致に起因するものだろうか、それとも両者がもつ知覚能力の肌理細かさの差に起因するものだろうか〕。

p.201(邦訳p.223

・では次に、同定されるべき個別者がこの知覚可能な個別者の範囲に入っておらず、直示的同定が不可能な場合を考察しよう。この場合に利用可能な言語的手段は、〈記述〉ないし〈名〉ないし〈その両者〉である。

・或る個別者の同定に名を使用するとしても、われわれはその名が誰(何)を指示するのかを知らなければ、結局のところその使用は役に立たない。名は説明を求められた際につくりだせる記述の支えがなければ無価値である。〔たとえば、話し手が「ソクラテスが毒にんじんを飲んだ」と語った際、聞き手がソクラテスとは誰かを知らず、「ソクラテスって誰」と尋ねたと想定しよう。ここで、「ソクラテスっていうのはギリシア時代の哲学者で、青少年をたぶらかせた罪で死刑に処され云々」といった名を支える記述を話し手が何も与えられないならば、同定に成功することはまったく望みえないだろう〕。

・そこで、非直示的同定は、究極的には一般名辞だけによる記述に依存すると思われるかもしれない。人が宇宙の或る区域に関して十分に通暁しているとすれば、この区域において特定の一般記述に照応する個別者がただ一つあることを疑いの余地なく知っているかもしれない。しかし、このように想定したとしても、それは記述の一意的な適用を保証するものではない。たとえ一意性を確保するためにどれほど記述を長大なものとしようとも、大規模複製(massive reduplication)によって宇宙の別区域に同じ記述に適合する個別者が存在している、という可能性は排除できない。話し手と聞き手の知識がどれほど膨大なものであっても、大規模複製の可能性がつねに開かれている以上、話し手が与える同定記述が一意的に適用されることを両者とも知りえないのである。〔したがって、非直示的同定の成立可能性についての懐疑は理論的な根拠をもつ〕。


6.6 The Sensorimotor Grasp of Qualities

 Noёは前節で、色・形・肌理といった知覚可能な諸性質は、数と同様に形式的概念である、と提案した。それらはすべて、われわれが暗黙的に理解しているものによって、つまりパースペクティヴ的な諸特性や見かけの色彩が位置している構造的空間によって、把握されているのである。

 いかなる種類の数学的原理の把握が、すべての自然数を概念的思考に「包含する」ことを可能にしているのかは、多かれ少なかれ明らかである。それはPeanoの公理の把握に類したものである。では、色や形についてわれわれがもつ生成的な(generative)把握を構成するものは何か。それは感覚運動的規則の把握に存する。

第三章では形の経験が、第四章では色の経験が、それぞれ感覚運動的規則の把握に依存するということが論じられた。われわれは対象に対する自身の移動に応じて生じるパースペクティヴ的な形の変化を暗黙的に把握している。この把握は、何かが立方体状のものや球状のものとして提示されるとはどのようなことかについて、われわれがもつ把握である。色の把握は、色に影響する諸条件が変化するのに応じて、現われがどのように変化するかについての暗黙的な知識に依存している。

 こうした感覚運動的技能を概念的(あるいは原‐概念的)だと考えてみよう。そのような技能の所有が、知覚的諸性質を思考のなかに包含することを可能にする。この知識は、それまでに見たことのない新たなものを統制された馴染みのものにする仕方をわれわれに与える。感覚運動的技能は、知覚的諸性質を理解するために直示的概念を用いる際に、われわれが働かせる再認能力の基礎である。

6.7 Are Sensorimotor Skills Really Conceptual?

 6.2で説明したように、概念は実践的技能であり、その実践的技能の一部――運動感覚的技能の一部――は単純概念である。Poincaréはこれと同様の考察を与えている〔引用のうち前者は略〕。

  私の眼の前である物が位置を変えた。その映像は網膜の中心に最初は形作られ、続いて、網膜の縁で形作られる。もとの感覚は網膜の中心のところで終わる神経線維によってもたらされ、新しい感覚は定性的には違ったものである。それでなければ、どうしてこの二つを区別できようか。それなら、この二つの感覚は定性的には違っているのに、場所が変わっただけのことで、実は同じ映像をあらわしているのだ、とどうしてわたしが判断するにいたるのだろうか。これはわたしが眼で物のあとを追うことができるからであって、筋肉感覚に伴われながら自由に眼の位置を変えることによって、映像を網膜の中心にもち返って、もとの感覚を復活できるからにほかならない。(『科学の価値』、吉田洋一訳、岩波文庫、1977p.97

知覚者が対象の変位(displacement)を表象することができるか否かという問いは、当人が関連する感覚運動的知識を所有しているか否かという問いに等しい。しかしなぜ多くの人は、この感覚運動的知識が変位という観察的概念の所有を構成すると認めないのか。

 そのひとつの理由は、当該の感覚運動的技能が部分的あるいは全面的にサブパーソナルなものであるかもしれないという点にある。網膜上の神経線維に与えられる刺激パターンは、知覚者の心理学にではなく、その心理学を因果的に可能にする条件に属する。さらに言えば、そのパターンは意識の閾下で生じるかもしれない。

 こうした事実は感覚運動的技能が概念的であるという考えの妨げとはならない。それがもつサブパーソナルな性格にも関わらず、その技能の帰属は概念を特徴づける全体論規範性についての考慮に左右されている。或る人物が対象の変位についての視覚経験をもつとわれわれが認めうるのは、当人が次の条件を満たす場合に限られる。すなわち、その当人はまた、目を閉じれば対象が視界から消えるということを予期できなければならず、対象の移動と対象に対する自身の移動とを区別できなければならない、等々という条件である。〔つまり、或る人物が或る観察的概念を所有していると認められるのは、当人がそれと関連する諸々の感覚運動的技能を全体論的に所有しているときに限られる〕。

6.8 Context Dependence: A Reply to Kelly

 Peacockeなどの非概念論者は〈われわれは経験可能なすべての性質を概念的思考へと包含しえない〉と主張する。Kellyはこの非概念論者の論証が失敗していることを認めつつ、経験が表象的でありながら非概念的であることを示す別の仕方が存在すると論ずる。Kellyはこれを色の恒常性の現象(光の当たり具合の異なる壁の色を同一の色として見る)を用いて例証する。Kellyによれば、われわれが壁を色彩に関して経験するその仕方において差異が存在するのは確かだが、この差異はわれわれが壁をどの色として経験するのかについての差異ではない。この差異はどの色彩概念を適用するかとは関係がないのである。

 Kellyによれば、色の恒常性は知覚経験が文脈依存的であるということを示している。対象がもつ色の知覚経験についての十全かつ精確な説明は、その色が知覚されている照明状況への何らかの指示を含まなければならない。いかなる色彩概念も(直示的概念であっても)、まったく同一の色の経験が変化するその仕方を捉えることはできない。なぜなら、それは色における差異ではないからである。これには二つの反論がありうる。

(1)その差異は概念内容における差異である。ただし、その差異に関連する概念は照明の概念であり、色の概念ではない。〔こうした反論に対してKellyならば次のように再反論するだろう。たとえ関連する諸々の文脈を直示的な仕方で概念内容へと取り込み、直示的思考の連言によって当該の差異を概念的思考へと包含しようとしても、そこには多大な困難が控えている。つまり、関連する文脈の要素は照明状況に尽きず無数に存在し、しかも状況の変化に応じてどの要素が関連するのかも変化してゆく。それゆえ、直示的思考の連言は当該の差異を余すところなく包含しえるような終着点へと到達しえないのである、と〕。

(2)Kellyは色の恒常性の現象についての偏った特徴づけに依存している。その現象において、確かに〈われわれは壁が色彩において一様であるということを見ることができる〉ということは真である。しかし、そのことは〈われわれは壁がその表面にわたって色彩に関して異なっているということを同様に見ることはない〉ということを含意しない。色彩が知覚的に非一様的であるということにもまた確かな意味がある。例えば、われわれは壁面上の異なる色合いの各々に対して、異なるカラーチップを対応させることができる。それゆえ、その非一様性を色彩経験における差異ではないと示唆することはミスリーディングである。エナクティヴ・アプローチはこれを次のように説明する。壁の実際の(actual)色は、その現われが色に影響する条件に応じて変化するまさにその仕方である、と。

 知覚内容は二重の相をもっている。それは事実的内容とパースペクティヴ的内容である。Kellyの着目する差異はパースペクティヴ的内容における差異であるが、まさにそれはわれわれの色彩経験におけるパースペクティヴ的差異である。それは確かに文脈依存的(パースペクティヴ依存的)であるが、この依存性は色の恒常性と衝突しない。それゆえ、この文脈的要素を非概念的なものと考える必要はない。

6.9 Activity Trails

 Cussinsは運転しているバイクの速さを知る二つの仕方を考察している。第一の仕方はバイクの時速を知ることであり、この場合、その時速は「あなたがその時速で走っている」ということを真にする真理の製作者(truth maker)として与えられる。第二の仕方は世界との技能的相互作用の要素として与えられる(スロットルの回転圧力、ブレーキペダルの抵抗、道路の振動、等々)。それは周囲の環境がいかにして特定の動作をアフォードするのかについての感覚であり、それらの圧力等を調整するために何をなすべきかについての身体的かつ環境的な知識である。

 Cussinsはこれらの区別を、彼が呼ぶところの客観に基づく(objectual)知識と経験に基づく(experiential)知識とに対応させている。前者において、世界は特性や事態から成る独立的な領域として与えられ、世界についての思考は真理の規範によって支配される。この知識は概念的なものである(表象のための知識)。他方、後者において、世界は行為をアフォードする可能性として、〈媒介の領域〉として与えられる。この知識は非概念的なものである(行為のための知識)。経験は世界を、思考のための領域ではなく、活動のための領域として提示する。活動の構造は、環境を通じて人を導く活動誘導(activity trails)から成る。Cussinsはこれらの知識はどちらも基礎的で不可欠なものであると考える。

 しかし、これらの区別はそれほど明確に引けるものではなく、経験に基づく知識が非概念的なものであるとは言えない。思考と真理の追究もまた一種の活動であり、行為の誘導あるいは可能性によって構造化されている。経験それ自体もより複雑であり、行為をアフォードする機会としての世界と、思考をアフォードする機会としての世界との双方へと向けられているかもしれない。

 実際のところ、Cussinsの区別した二つの知識はどちらも世界の在り方についての知識である。音楽はこれら二つの形態の知識が合流する領域である。あなたは音楽理論を学ばなくとも音楽的な事実および連関を理解することができる。客観に基づいた知識はあなたがもつ音楽的活動についての技能的習熟に基づいている。

 Cussinsのような知識の区別は思考と知覚の間にではなく、知覚経験の内部において引かれるべきである。それは事実的次元(物事の在り方)とパースペクティヴ的次元(物事の現われ方)との区別である。経験が世界の在り方を提示するのは、われわれが〈世界の在り方〉と〈われわれの移動に応じて変化する世界の現われ方〉とのあいだの関係を感覚運動的に理解しているがゆえである。

6.10 Understanding in the Natural World

 非概念的内容についての議論には経験主義的なものもある。複雑な概念の所有はより単純な概念の所有に依存し、観察的概念のような最も単純な概念はそれ以上の他の概念に依存せず、しかるべき非概念的な基底をもたねばならない。Peacockeはこの考え方を追求している。彼の主張を動機づけているのは、例えば、何かを赤として経験することの、その更に基礎にある経験を概念化するための候補となる、赤とは別のより基礎的な概念が存在しないということの認識にある。これに対する歴史的に典型的な手は、その経験を何かが「赤く見える」ものとして特徴づけることにある。しかし、「赤い」の把握が「赤く見える」の先行的な把握に存すると想定するならば、その説明は成功していない。なぜなら、「赤い」と区別される「赤く見える」の独立的な把握をわれわれはもたないからである。Peacockeは暗黙的概念了解(implicit conception)という装置を用いて、論理的概念に関して類似の説明を行っている。

 Peacockeによる知覚的概念の説明に対しては二点の批判が挙げられる。(1)その現前が色彩概念の適用を統制するような単純なクオリアは存在しない(第四章)。(2)本章で論じてきたように、知覚的概念の基底は非概念的ではなく感覚運動的である。感覚運動依存の法則は知覚的概念を部分的に構成している。

 センスデータ論者は、例えば、全体としての立方体の経験を特徴づけるためには、われわれは経験の所与を越えていかなければならないと考える。他方、直接実在論者は、経験は立方体の全体的存在に関して与えられると考える。

 直接実在論者は、全面的に正しいわけではないが、全体としての立方体の存在についてのセンスは感覚的なもの(sensory)であるとした点では正しかった。立方体の三次元的な存在を与えるのは感覚運動的理解である。このように、感覚運動的知識の所有が観察的概念の所有の基礎にあるのである。

〔参照〕:Cussinsの二種類の内容についての表

From his 1990 ‘Content, Conceptual content, and Nonconceptual content’, in ed. Gunther, Y.H., 2003, Essays on Nonconceptual Content, Cambridge, The MIT Press, pp.133-163.

Conceptual Content

Nonconceptual Content

Norm

(Governing Normativity)

Truth

(& other elite norms)

Activity Guidance

(& Skill / mastery & other mundane norms)

World gives as …

(Content specified by

reference to …)

Realm of Reference

Realm of Mediation

Mode of Presentation

(Constituent Structure)

Referent: particular

objects, properties, etc.

Activity Trails

Chap.6 Thought in Experience

in Alva Noё, Action in Perception


6.5 Embracing the World in Conceptual Thinking

前節における導入と予備的考察に続いて、本節では知覚経験の内容を概念的思考がいかにして包含しうるかについて、色彩経験の例を中心にして議論がなされる。


Noёの知覚経験における概念性テーゼ

知覚経験をもつことはまさに、自らが経験するものへと思考の力を注ぐことである。経験と概念化とはまったく同一の活動である。単なる感覚刺激のみでは経験を成り立たせるには及ばない。感覚運動的知識を経験において働かせることこそが、世界を提示する内容を欠いた単なる感覚刺激をして、経験たらしむるのである。知覚経験はまさしく世界の技能的探索の様式である。そこで必要とされる技能は感覚運動的なものであり、かつ概念的なものである。


本節の議論の流れ

基本的なアイデアの提示:色彩経験の構造性

直示的概念に関するソリテス・パラドクスの回避

色彩と自然数との類比:形式的概念

色彩と自然数の違い その1:名辞の有無

色彩と自然数の違い その2:再同定の容易さ

NP問題との類比による⑤の解決


基本的なアイデアの提示:色彩経験の構造性

上記のテーゼを発展させるために、まず、〈諸々の色彩は空間あるいは構造を形成するような仕方で互いに関係する〉という事実を考察する(以下の論点は他の知覚可能な諸性質にも当て嵌まる)。色彩は原色(赤・緑・青・黄・黒・白)をもち、連続的な三つの次元(色相・明度・彩度)において変化するという構造性をもつ。確かに、各色合いに対してわれわれは固有名を持ち合わせていない。だが、色彩空間の構造的均一性は任意の色合いの概念把握を可能にする。なぜなら、その均一性によって色彩概念式(color-concept-formulae)を形成する可能性が得られるからである。McDowellの基本的な発想は、直示的概念(demonstrative concepts)を表現するために知覚的な直示(例えば、「あの色合い(that shade)」、「あの色(that color)」)を用いることができる、というものである。直示的概念とは、知覚的に現前する性質への指示によって規定される概念である。このような概念によって、「視覚経験において示されるのとまさに同じ規定性をもって、諸々の色合いを概念的思考へと包含する」ことが可能となる。


直示的概念に関するソリテス・パラドクスの回避

知覚的な直示的概念はソリテス問題を生じさせるように見える[1] 。不可識別性は非推移的であるが(もしxyから識別不可能であり、yzから識別不可能であり、zxから識別不可能でないならば、yは二つの異なる色合いと同一になる)、これを考慮するならば、「あの色合い」のような表現を不可識別性の観点から規定することはできないように思われる。しかし、McDowellが指摘するように、これは真のソリテス問題ではない。


なぜ真のソリテス問題ではないのかを理解するために、『探究』50節における、「色見本は言語の一つの道具、すなわちシンボルとみなされるべきである」という主張を考察しよう。見本は標準としての或る役割を果たすために使用される。見本は意味(meaning)の説明において用いられ、それゆえ、或る重要な意味において、それが例示する性質の担い手ではない。すなわち、見本である限りにおいて、赤の見本それ自体は赤くないのである(見本として用いられるカードは赤くあるべきだが)。メートル原器に用いられているプラチナ棒の長さは状況に応じて変化するが、原器の長さは変化しえない。見本である限りにおいて、その原器は長さをもたない。見本は知覚の対象ではなく、記述のために使用されるシンボル的な道具なのである。


見本を指示することによって或る色を説明するとき、私はその見本自体が私の規定している色彩概念の外延に属すると述べているわけではない。(色彩に関して)その見本と同一なものはすべてその外延に属する。しかし、その外延の要素は、要素である限り、それ自体がしかるべき見本であるのではない。本質的に、その外延の要素は見本として使用しえないので、或る指示された色合いにサンプルの地位を授けることは、ソリテス問題を生じさせる状況とは類似していない。人は「これおよび(色彩に関して)これと類似しているすべてのものが赤である」と言うが、「これおよび(色彩に関して)これと類似しているすべてのものに類似しているすべてのもの(以下、無限に続く)が赤である」とは言わない。後者の定式はその外延の各要素をしかるべき見本として扱っているため、ソリテス問題へと導く。(以下、〔〕内は観音樹による補足)〔前者の定式においては、各要素は見本と比較されることで当該の概念の外延に属するかどうかが決定されるため、ソリテス問題の元凶である識別不可能な項同士の推移連鎖を考慮に入れる必要がない。それゆえ、ソリテス問題は生じない〕。


色彩概念と自然数との類比:形式的概念

〈われわれは知覚可能な色合いのすべてを概念的思考へと包含するための資源を有している〉ということを理解する鍵は、〈われわれは自らが出会うすべての新しい知覚的性質へと――いわば式的(formulaically)に――拡張されうるような種類の概念能力を有している〉と認めることである。


 自然数の概念はまさにこのような種類の概念である。われわれは無限な自然数すべての概念を有している。これは自然数がもつ構造的特徴によって可能となる。自然数を把握するために、われわれは前もってその各々の概念をもっている必要はない。われわれは機会に応じて必要な概念を構成すればよい。そのために、われわれは今までにない新たな概念を構成する必要はなく、代わりに、われわれの通暁している概念を新しい数を包含するために拡張することで、当該の数をその概念のもとに含めることができる。


 数的な思考は明らかに非概念的なものではない。なぜなら、それは無限な数概念(an infinity of number concepts)、あるいは相異なる無限の数というひとつの概念(a concept of an infinity of different individual numbers)の所有を要請するからである。上で見たように、数の概念に特徴的なのは、規則に由来するその式的な側面である。これは、Wittgensteinが『論考』で「数は形式的概念である、すなわち、形式主義における固定された論理的構文論の変項である」と主張したときに意味していたものかもしれない。その発想は〈変数の有するのと同じ論理的構文論を有するものは何であれ数である〉というものである。


 おそらく、色彩は数とともにこうした形式的側面を共有している。色彩空間は構造的特徴をもつ。すなわち、任意の色合いに対して、たとえそれが今までに出会ったことのないものであろうと、われわれはそれを思考に包含しうる。もしこれが正しければ、或る意味で新しい経験は存在せず、いかなる知覚可能な性質もそれを把握するために新たな概念装置を要請することはない。すべての数、すべての経験的性質のもつ諸特性は、それらの体系とともに一挙に与えられる。


色彩と自然数の違い その1:名辞の有無

数を表象する記号体系は、数の名を無限に産み出す再帰的な手続きを含んでいる。それゆえ、自然数のすべては名辞をもつ。色彩について、われわれはこうした名辞を欠いている。


 だが、この違いは見かけ上のものにすぎない。われわれは実際に色見本が与えられたならば、任意の色合いをピンポイントで示すことのできる言語的手段を有している(例えば、「これは私が求めている赤ではない。もっと明るいのが欲しいが、この別の見本ほど明るくなくてよい」等々)。


色彩と自然数の違い その2:再同定の容易さ

どんな数であれ、その数であるための非常に厳密な基準を有しており、それゆえ別の機会に問題なく再同定されうる。色彩の場合はそうではない。知覚的な直示的概念は、その例化と対面しているときにのみ把握されるか、せいぜい、その後のごく短期間の間だけ把握されるようなものであるかもしれない。それゆえ、その概念の再同定は容易ではない。しかし、これは私がその概念を真には所有していないということを示してはいない。これを理解するために、さらなる類比を導入しよう。


NP問題との類比による⑤の解決

ある種の問題は、一般的な解法をもたず解くのが難しいが、一度正しい解答に至るならばそれが解答であることを直ちに看て取れる(例えば、ジグソーパズルや素因数分解)。これは、非決定的多項式問題(NP問題)(nondeterministic polynomial problem)として知られる計算問題の特徴である。

〔NP問題とは多項式時間で解くことのできないアルゴリズムの問題である。多項式時間のアルゴリズムとは、解くべき問題の入力データ量をnとするとき、計算に必要な処理回数(計算時間)がnに関する多項式(例えば、an2+bn+c)で表されるようなものを指す。これと対照されるのが指数関数時間である。指数関数時間のアルゴリズムとは、計算時間がnに関する指数関数(例えば、an)で表されるようなものを指す。a>1のとき、nが増大すればするほど、指数関数時間は急激に増加してゆく。

例えば、各々が0~9までの10個の数で構成された10桁のダイヤル式ロックを解く問題を考えよう。この問題の最大計算時間は1010=100億という指数関数時間である。これを網羅的に解こうとしたら莫大な時間が掛かるかもしれない。ここで、鍵屋が用いる特殊な道具を導入すれば、一桁ごとに正しい解答か否かが確かめられる。この場合、最大計算時間は10×10=102=100という多項式時間となり、高々100回の試行で解くことができる。一般に、NP問題においてはnが増大すればするほど計算時間は莫大なものとなる〕。


 知覚的な直示的概念を適用するという問題が実際にはNP問題であるという可能性を考えよう。正しい例化の現前下では、その概念が適用されるかどうかはすぐに看て取れる。正しい例化の不在下では、その概念が適用されるかどうかを知るのは困難である。


 われわれの色彩概念がこのような仕方で知覚的な直示的概念によって補完されるならば、与えられたサンプルがその概念を例化しているかどうかを概して決定できなくとも驚くべきではない。そうした事実は、われわれが当該の概念を欠いているということを示してはいないのである。



[1]  ソリテス・パラドクスとは「禿男のパラドクス」(髪の毛が一本の人は禿である。髪の毛が一本の人が禿ならば、髪の毛が二本の人は禿である。…髪の毛がn本の人が禿ならば、髪の毛がn+1本の人は禿である。…髪の毛が十万本の人は禿である)のように、境界事例がはっきりしない曖昧な述語に付きまとって生じるパラドクスである。ここでは、正しい前提と正しい推論規則(前件肯定式)から明らかに偽な結論が導かれる。ソリテス・パラドクスの詳細については『論理の哲学』(飯田隆編、講談社、2005)参照。

8.

マクダウェルの立場に対して、次のような理由からしばしば反論がなされる。すなわち、その立場は「世界が完全に思考の力の及ぶ範囲内にある」という根拠なき盲信であり、傲慢な人間中心主義を含んでいる、という反論である。われわれが自らの思考の影として世界を把握する(=観念論)からではないにしても、われわれは世界を把握する自身の能力になぜそれほど確信を抱きうるのだろうか。

しかし、傲慢という非難はマクダウェルの立場には当てはまらない。第一講義の第5節で述べたように、自発性の能力は、合理的ネットワークの信憑性について反省するという持続的な義務を携えているのであり、その合理的ネットワークは、人が経験への応答において世界観を調整するという能動的な働きを統御する際にはつねに必要とされる。こうした作業は継続的で困難なものであり、忍耐だけではなく謙虚さをも要求する。いついかなるときにも、「世界は完全に概念体系が及ぶ範囲内にある」ということを保証するものはない。それゆえ、反省への義務は永続的なものなのである。

その義務が永続的であるということを退ける向きもある。そうした者は「探求の終点」において義務の履行が止まると考える。「探求の終点」とは、一切の探求がもはや必要ではない状態である。たんなる理想としてでさえ、こうした「探求の終点」という概念は容認しがたい。それは、(観念論がしばしば陥るような)「反省の退化した姿」ではないとしても、一体いかなるものでありうるのか。「探求の終点」という考えはマクダウェルが推奨する立場の一部ではない。

9.

本講義において、マクダウェルは観念論という批判について論じてきた。それは、実在が思考とは独立のものであるということを承認できないという意味における観念論である。ここは、〈振り子状態からの脱出についてのマクダウェルの解決法がいかにカントと関係しているか〉を述べる絶好の文脈である。

カントは受容性に自発性との協働における分離可能な寄与を保証したのだろうか。その答えは「ノー」でもあるし「イエス」でもある。

経験的な観点からすれば、その答えは「ノー」である。

もし、受容性からの経験的に分離可能であるような寄与を措定するならば、人は経験における所与へとコミットすることになるが、それはカントの中心的思考を拒否することに繋がる。

カントにとって、経験可能な内容の領域の外部を指し示すことによってわれわれが訴えかけることができるような、そうした究極的な根拠を経験が摂取することはない。経験においてわれわれが感覚器官への衝撃を通じて摂取するのは、思考可能な領域の外部に在るのではない実在の要素である。

他方、超越論的な観点からすれば、その答えは「イエス」である。

超越論的なパースペクティヴにおいては、受容性から分離可能な寄与が存在する。そのパースペクティヴにおいて、受容性は超感覚的な実在からの衝撃に対する感受性として現れるのであり、その超感覚的な実在はいかなる概念能力からも独立であると想定される。

もし、われわれが自身を経験的な観点に限定するならば、カントのうちに見出されるのはまさにマクダウェルが推奨してきた描像である。

しかし、超越論的なパースペクティヴは、この振り子状態から解放してくれる潜在力を秘めた描像を、先に述べた境界横断的描像の奇妙な一変種へと嵌め込んでしまう。それは周囲を境界に囲まれた概念の空間と、その境界の外側にある何ものか――超感覚的なもの――とから成っている。

ひとたび超感覚的なものが描像のなかに入り込んでしまうと、われわれの思考からのその根本的な独立性こそが真の実在のもつ独立性であり、経験世界において独立性を求めることは、それと比較すると不正なものに思えてくる。

さらに、われわれは次のように想定するよう求められる。すなわち、経験世界の根本的構造(=超越論的観点から見られた経験世界の構造)は何らかの仕方で超感覚的な実在と相互作用する主観性の産物であり、その超感覚的な実在は真の客観性の位置を占めるものとして姿を現す、と。

しかし、われわれが経験世界の根本的構造に対して部分的にとはいえ責を負っているならば、その経験世界はいかにして真にわれわれから独立的なものでありうるのか。

〔補足〕:この問いの含意は次のものである。マクダウェルの描像において、ある事項に対してわれわれが「責を負っている(responsible for)」ということは次の二つを同時に意味する。①その事項は自発性の領域の内部にある、②その事項は独立的な実在の一部である。超越論的なパースペクティヴにおいては、経験世界の根本構造は主観性の産物であり、それゆえ自発性の内部にある(①を満たす)。しかし、それに対してわれわれが「責を負っている」ならば、それは独立的な実在でなければならない(②も満たさなければならない)。これはいかにして可能なのか、というのがマクダウェルの問いである(もちろん、マクダウェルはこの問いに否定で答える)。

経験に対して日常的な経験的受動性を認めることは、合理的制約というわれわれの必要性に適うものである。しかし、超越論的受動性という概念は問題含みのものでしかない。カントの観点に従って、われわれは因果関係を経験世界の内部で作動するところの何かだと見なしている。それに対して超越論的受動性の概念を付け加えることは、経験的受動性が与えうる保証を掘り崩すものでしかない

〔補足〕:超越論的受動性がわれわれに与えるのは可想的因果性であり、これによって因果性は可想的因果性と感性的因果性とに二重化される。もし経験的受動性がわれわれに合理的制約を与えうると考えるとしても、真の実在を超感性的なものへと置くならば、経験的受動性をさらに遡行する超越論的受動性が要請される。この受動性は一種の因果性に過ぎないため、結局は経験的受動性による合理的制約を掘り崩してしまうのである。

カントは振り子状態から抜け出す一歩手前まで来ていた。所与の神話によれば、われわれが思考と実在の結びつく究極的な地点へと達したとき、理性の指令へ責任をもって配慮する義務は免除される。しかし、実際は、その義務は実在のすべてに対して効力のあるものでなければならない。世界それ自体がわれわれの思考に合理的制約を課さねばならないのである。もし、合理的な応答可能性が世界それ自体の手前で消滅すると想定するならば、われわれの描像は経験判断として認めうるようないかなるものをも描きえない。それと同時に、経験内容もまた消え去ってしまう。

超越論的な枠組みさえなければ、われわれはカントをこうした洞察の明瞭な定式化を行った人物として評価できる。

自発性の能力という概念は、自身の生を統括する権能をわれわれに与えるものを示している。カントは、その概念をわれわれの経験的思考が十分に活用しうるような道を指し示している。すなわち、経験的探求という領域において、われわれは責任ある自由を行使すると同時に、合理的制約への要求を満たしているのである。

しかし、超越論的に言えば、経験的思考におけるわれわれの責任ある自由は真正な代物には及ばないように思われる。無罪証明は正当化の代用にはなり得ないにもかかわらず、さらに、経験的に言えば、われわれは経験判断のための正当化をもちうるにもかかわらず、超越論的なパースペクティヴを尊重するならば、われわれが経験判断のためにもちうるものはせいぜい無罪証明でしかない。

これがカントの哲学の不満足な側面であるが、ここまで述べてきた論述は単純すぎる。特に、超越論的な枠組みを切除することが簡単であるかのような印象を与える点でそうである。第五講義でこれについてさらに論じる。

これまで述べてきたように、もし、カント思想における超感覚的なもののもつ役割を分離するならば、われわれの手元には、実在が概念的なものを囲む境界の外側に位置づけられていないような描像が残される。そのような描像は実在の独立性を軽視するものではない。その描像は常識を攻撃するものではなく、まさにそれを擁護するものである。

概念領域が境界をもつという考えを拒否することは、絶対的観念論(Absolute Idealism)にとって中核をなす。そして、われわれはその哲学のレトリックを飼い馴らすことができる場所へと到達した。

「思考において、私は自由である。なぜなら、私は他なるもののなかにはいないからである」。このヘーゲルの表現は、まさにマクダウェルが使用してきたイメージ――概念的なものは境界をもたず、その外部には何もない――を表現する。

10.(略)