4.志向性
・ すでに見たように、知覚を表象の一形式とみなすならば、われわれは現象原理を退けることで錯覚・幻覚論法を免れうる。その場合、知覚は経験対象との関係ではないということになる。
・ こうした見方は志向性概念に関する伝統的な見方(ブレンターノ等)に含まれているものである。志向的状態の存在はその志向的対象の存在を含意しない。それゆえ、志向性は関係ではない。クレインは、志向性をもつ表象として知覚を捉える見方を「志向説」と呼ぶ。
・ 知覚の志向性は関係ではなく知覚経験の内在的性質であるが、こうした志向性の見方は他の幾つかの概念によって覆い隠されてきた。
(1) クオリア:クオリアは典型的に心的状態の内在的性質として捉えられ、関係的なものとされる志向的性質と対比されてきた。ここで志向的性質は関係的だとされるが、それは志向性が他の心的状態との関係において機能的に理解されているからである。だが、これは機能主義の十全な理解には達していない。なぜなら、ここでの「関係」は傾向的なものにすぎず、傾向性はその顕現(manifestation)との関係ではないからである。
(2) 志向的対象としての命題:志向的性質は志向的対象としての命題との関係を含むがゆえに関係的であると言われてきた(Stoljar、あるいはタイの表象主義)。しかし、われわれは経験の命題的内容と志向的対象とを区別すべきである。知覚者は経験の志向的対象を見るのであって、その命題的内容を見るのではない。命題を志向的対象と呼ぶことはミスリーディングである。われわれは志向性が志向的対象との関係ではないという志向説の考えを保持しつつ、知覚が命題とのある種の関係を含む(=命題によって分析可能である)ということを認めることができる。
(3) 外在主義:志向性あるいは心的内容に関する外在主義者は、志向性の一部は関係的であると主張してきた。彼らは対象依存的な内容をもつ志向性は関係的であり、対象独立的な内容をもつ志向性は非関係的であるとする。これをクレインは「志向性の混合説」と呼ぶ。対象依存的な志向的内容とは、その存在が個別的な対象の存在に依存する内容である。それゆえ彼らは、経験に関する表象的な見方は志向的状態に関する対象独立的な見方を適用しなければならず、関係的な見方は対象依存的な見方を適用しなければならないと考える。
しかし、前者は誤りである。なぜなら、バージが明らかにしたように、知覚の表象理論は個別的な知覚エピソード(幻覚と同じ内容をもつ通常の知覚)が対象依存的であることを許容するからである。われわれは個別的な知覚エピソードに関して真であることと、同じ基本的種類に属する心的状態に関して真であることとを区別すべきである。
では後者についてはどうか。混合説の主張者は、知覚の対象依存性を特徴づけるのは、それが直示的内容を含んでいることだと考える。それゆえ、経験に関する関係的な見方は、知覚対象についての直示的思考を行う主体の能力によって、知覚がもつ対象依存的な志向性を説明するだろう。しかしこれは、知覚に基づいた思考の内容が関係的であるということを意味するにすぎない。
より根本的な問いは、知覚それ自体が関係的であるか否か、知覚が世界それ自体を心に提示するか否かである。これを理解するためには、われわれは対象依存的思考に関する議論を宙吊りにし、経験の関係的な見方の核心を突き止めなければならない。
5.選言説
・ 経験の関係的な見方と最もよく調和するのは「選言説」である。
・ 選言説の主張者は、通常の知覚と幻覚が同じ基本的な種類の心理的状態に属することを否定する。主観的に識別不可能な知覚と幻覚に共通する最も規定的な記述は、高々次のような選言的なものにすぎない。「ウサギの知覚的現れは、ウサギの真正な知覚であるか、あるいは、ウサギの単なる幻覚である」。
・ 選言説の主張者は、知覚と幻覚が共通の「質」をもつことを認める。
・ また彼らは、知覚と幻覚が共通の物理的状態(例えば脳状態)をもつことを否定しない。彼らが否定するのは、対象を知覚している状態がこの物理的状態と同一である、あるいは、それに付随するということである。なぜなら、知覚はその対象に対して構成的に依存しているからである。真正な知覚において性質は例化されているが、幻覚においては単に表象されているにすぎない。真正な知覚の現象的性質は知覚された世界の在り方によって決定される。
・ 選言説は「真正な知覚は世界との関係である」という常識と調和するという利点をもつ。
・ 選言説は、知覚と幻覚とを異なる基本的種類に属する心的状態とすることで、内観的な自己知の権威に限界を設けるという代償を払う。それも心的内容に関する外在主義からすれば問題ではないが、外在主義と自己知の権威性とが両立可能であるかに関しては係争中である。
・ 他方、志向説は知覚の関係性を犠牲にするが、それは伝統的な志向性概念からの当然の帰結にすぎないとする。
6.クオリアの問い
クオリア理論は以上において示した知覚の問題のなかでどこに位置づけられるのか。
・ まず、副詞理論との親縁性が目に入る。副詞理論は、対象がFという性質をもっていると錯覚するとき、経験は‘being a sensing F-ly’という性質をもっていると主張する。幻覚の場合も、副詞理論はそこで気づかれている対象を経験の変容=修飾(modification)によって説明する。
・ しかし、クオリア理論と副詞理論は異なる。クオリア理論がクオリアによって説明しようとするのは、経験の「質的な」側面のみである。他方、副詞理論は、経験において与えられるもののすべての側面を経験の性質から説明しようとした。こうした違いが生じるのは、副詞理論が錯覚・幻覚論法に答えようとしたものであるのに対し、クオリア理論はそうではないからであり、また、クオリア理論がそうであろうとすれば、それは直ちにその妥当性を失うからである。
・ クオリア理論は、「経験は表象的内容に加えてクオリアももっている」という形において最もよく定式化できる。
・ 2節でみたように、われわれは経験の対象だけではなく経験の仕方に気づくことができる。しかし、それが内在的なクオリアの例化によって最もよく説明できるかどうかは議論が必要である。
・ 選言説は一般に経験がクオリアを含んでいることを否定する。それゆえ、クオリアに関する議論は志向説の内部でのマイナーなものにすぎない。
・ 以上より、クオリア理論は知覚の中心問題、すなわち「知覚的関係は存在するか」という問題には関わらない。