永井とみ追悼文(1) | riversideのブログ

永井とみ追悼文(1)

浄念寺御住職様



亡き叔母、永井とみ子の葬儀の導師をお勤め戴いて、有難う御座いました。  

その節119日には、大層お見苦しいところをお目に掛けて申し訳御座いませんでした。

そのお詫びを申上げるために、本日筆を執りました。

故人、永井とみ子は明治40(1907)に、山川要蔵の次女として生まれました。 私は永井とみ子の姉の長男、山川要蔵の最年長の孫です。 私が6歳になる迄は、母の妹である4人の叔母たちは全て未婚で、山川家の唯一人の孫である私は、母たち姉妹の一番下の弟、の様な育ち方をしました。

この5人の姉妹は、夫々大変に過酷な人生を過ごして、今回最後に逝ったとみ子叔母も、天寿を全うしたとはいうものの、厳しい人生でした。

その人生の一部に付いては、叔母の著書、「海峡をわたった林檎」に書いてあり、先日の告別式に参列した方はお読みになっているのですが、あの本に書かれていない部分で、葬儀列席者の知らないことも多いのは当然です。

その様な状況は全ての人間に共通の事、と言って仕舞えばそれまでです。

然し、私はこのことに大変に、こだわりを感じています。

それは、叔母と接触の有った人達の中に、普通ならばもう少し叔母のことを理解して居るのが当たり前、と思われる立場の人で全然それが分っていない人達がいるのを、残念に思っていたからです。

例えば、孫達も、普通の家庭の孫ならば、祖母のこの位のことは知っているだろう、と思われることを知りません。 でも、孫はそれで良いのです。

私が悔しいのは、若しもこの人がもう少し叔母のことを理解していたなら、叔母の人生はもっと違っていただろう、と思う人達が居ることです。

先日の葬儀が、叔母について皆様に左様な話を出来る最後の機会だと、思い詰めていた為、あのようになみっともなく、取り乱して失礼しました。

私があの席で話を始めると直ぐに、出席者の中で私の話などは聴こうとせずに私語を始めた人達がいました。 私も国立、私立の幾つかの大学で40年の講義の経験がありますから、300人くらいの人数に講演をしている時も、誰が本気で聴いているか、誰が私語して何を囁いているかは直ぐに分ります。

今回の場合には、私が話さなくても叔母のことをよく知っている人達は、良く聴いてくれているのに、私が話を聴いて貰いたく思っている対象の人達が、自分等同士で雑談をして居て、私の話を聴いていないのです。

それを見ながら話していると次第に私は頭に血が昇ってきて、自分自身が何を喋っているか分らなくなってしまいました。 

んなことは大学紛争が問題になった時代も含めて、現役時代には経験したことが有りません。

そこで、あのような、みっともない話し方をしてしまいました。

言い訳になりますが、その様な気持ちであったことを申し述べて、お詫びを申上げます。

折角ですから、今、考えてみると、もう少し話の中味を準備して、次のようなお話をすれば良かったのに、と後悔している内容、を申上げます

                         Y. K.

★ ★ ★ ★ ★ 故人を思う ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

故人、とみ子叔母は、長野市元善町の山川要蔵の次女、として生まれました。 とみ子の母親について、ちょっとエピソードの紹介をします。

昨年NHK大河ドラマで好評の篤姫の中に出てきた皇女和宮は、皇武合体政策の犠牲になり徳川家に嫁ぐ前は、元は有栖川宮熾仁親王と許嫁であり、その有栖川宮は、その後、江戸の徳川幕府を征討した官軍の総大将です。

明治政府になってから、この宮さんが善光寺に見えた時に、宿所でお酌取に地元の幼女が上り、其処で宮さんと幼女は花札遊びをしました。

幼女が勝ったので、彼女はいつものように、負けた宮さんの顔にスミを塗る、と主張して、周りが止めても聞き入れず、困ったそうです。

その幼女が、永井とみ子の母親、つまり、私の祖母でした。

とみ子叔母を最後に、祖母の娘である山川家の5人姉妹が全て亡くなった今、少し齢の離れた弟のような私が一人残されたような気分です。

叔母に世話になった思い出は沢山ありますが、最も忘れ難いのは、エルマンのバイオリン・コンサートを聴きに連れて行って貰ったことです

20世紀前半の世界最高の、伝説的バイオリニストのエルマンが、昭和初頭に日本に来て演奏会を開いた時の音楽ファンの感動は、現在の人には理解できないでしょう。 世界中の往来が容易になった、現在の人には!!!。

そのエルマンの演奏会に、とみ子叔母は3歳の私を、連れて行ってくれたのでした。

独身の叔母が、当時の汽車で長野から東京に一人で行くのも大変なのに、3歳の私を連れて行ってくれたのは、本当に有難い事でした。

現在の日本でエルマンの生演奏会を聴いた人間は、80歳を越している私以外には殆ど居ないでしょう。

昭和102月に、とみ子叔母は永井忠雄と結婚。  昭和2年から20年ころまでの、永井農場の大成功は忠雄氏の抜群の才幹を示すものです。

昭和10年代には毎年正月に、永井忠雄叔父から私の家に大きな「鱈のこ」の樽が贈られて来た。 その樽は街で一番大きな魚屋の店にあるものの数倍も大きく、且つ品質が優れていたので、魚屋が別けてくれと言ってくるほどでした。 子供心にも私は永井忠雄叔父の事業の隆盛さを感じていた。

戦争が無かったならば、永井夫妻の幸せは永続した筈です。

昭和6018日に亡くなった夫(85)忠雄との人生は、とみ子叔母の著書、「海峡をわたった林檎」{1990815日出版}、に書かれています。

この本には、家業以外にも感銘深い話が幾つも載っています。

太平洋戦争最後の沖縄戦で牛島司令官とともに自刃して果てた長勇参謀長は

昭和初頭の十月革命事件や張鼓峰事件で知られる歴史上の著名人だが、この人との交流の話、長大佐が沖縄に向かう前に別れの挨拶に見えたこと、・・・などもあり、他にも興味深い話が幾つもある。

時間が無いし、本席のご出席の皆様は、お読みになっていると思うので、あの本に書いてある話は、全部省く事にする。

しかし、本の話の中で、私の最も心痛むのは、昭和184月生まれの娘の利子のことです。  終戦後の混乱の中を、それまでの人生の蓄えの総てを朝鮮に捨てて、昭和20126日須坂に帰る。 が、帰着の一週間後に、利子が亡くなる。

その後の叔母夫妻の気持ちの建て直しに、私の父母がどれだけ腐心したかを知る私には、この才幹抜群の叔父の心中が推し量られて心痛む。

今は天国で、叔母が忠雄と利子と会っていることを祈るだけです。

話変わって、丁度今から40年前に人類が地球から宇宙に打ち上げたロケットが、初めて月に到着し、それまでは謎とされていた月の裏面の写真を撮り、月から見た地球の写真と共に、地球に送ってきました。

そのアポロ衛星のコントロールセンターは、ロスアンゼルス郊外のパサデナに在ったが、その当日、私は其処を訪れていて、正に到着したばかりの写真を見ました。 その年の大晦日の朝日新聞の一年の回顧記事に、その写真が掲載されています。 私はその様な訳だから、宇宙から見た地球の写真を見た最初の日本人である、と自負しています。

処で話したいことは、その自慢話ではありません。

ロスでも富裕な人々は市街地でなく、ハリウッド、ビバリーヒルズ、パロアルト、などの郊外地域に住むから、私はそのことの有った日に、そのパサデナの周辺に日本人が居る、などとは考えもしなかった。

処が遥か後になって、今から3年ほど前にメキシコ・リビエラ・クルーズの

船で乗り合わせた米国在住の日本人女性が、私が訪れたその頃からずっとその地に居住していたのを知って驚きました。

更に驚嘆したのは、話してみると、その女性は、父の家が長野の山川要蔵の家の同町内で、僅か100メートルほどの距離ですから、同じ年頃の私が祖父の家に行ったときに、(モノ心の付く前に)、遊んでいたに違いない。

私は神仏のなさることは人知の遥か及ばない所だと思うが、この様な奇跡的な事実自体が不思議だが、更に、そのことが有っても、それを知らずに過ごせば、それまでである。 それを敢えて3年前に私に教えてくださったのは、神仏のお計らいとしか思えない。

最初に申したとおり、山川家の5人姉妹は、夫々大変に過酷な人生を過ごして、苦労をしました。 然し、その中で、とみ子叔母は最も幸せであったかも知れません。 それは永井家に縁付いた為です。

素晴らしい夫、忠雄氏のご両親が抜群の才幹の持ち主であった(詳細省略)のは、子供達にも遺伝しており、忠雄氏の弟の仁三郎さん、妹の花枝さん、三代枝さんも大層人柄の良い方で、私共家族も、特に戦争末期の厳しい時代には、この人々に非常に助けて頂きました。

忠雄氏と、このご家族に迎え入れて頂いたとみ子叔母は、他の姉妹たちと比べて幸せだったし、私共Y家の家族もその恩恵に浴したのでした。

このとみ子叔母と永井家とのご縁を結び付けて頂いた山崎家の方には、本当に感謝申上げます。

なお、山崎家の方には、とみ子叔母が100歳を越して人生を閉じる寸前までも面倒を見て頂いて、お礼の申上げようもありません。

私自身は科学技術者です。 自称するだけでない証拠に、

▲例えば、今から30年ほど前に当時の日本の福田首相と米国のカーター大統領が会談して、新エネルギー開発の日米科学技術協力計画を発足した時に、日本側から米国に派遣された最初の科学者が私でした。 近頃はマスコミも世間も、地球温暖化などと云うようになりましたが、当時は日本社会も、あまり関心が高くなかった時代です。

▲また3年程前に米国の代表的科学者として日経新聞社が招待して日本を回ったドレッセルハウスの講演を聴いた同僚が、その感動を我が家の息子に語った時に、息子は子供の時に我が家に遊びに来たドレッセルハウスと一緒に撮った写真を見せて、その同僚を驚かせた、などのこともあります。

その様な、私ですから、何処かの新興宗教のような神掛かった迷信は信じません。

しかし、私には、人間の知恵など全く及ばない高い次元で、神仏の手が働いているような気がしてならないのです


例えば、先ほど申した、月から見た地球の写真を日本人として最初に私が見せて貰ったのは、山川の祖母がお会いしたことのある、有栖川宮が江戸幕府を倒して明治を築いた、丁度100年目の記念の年です。

しかも、その土地には、私の幼少の時に会っていた人物がいたのです。

更に、その年に私は大西洋上空の飛行機事故で、殆ど絶体絶命の状況に遭い、海面スレスレに飛ぶ機内で遺言状まで書いたのに奇跡的に助かった、という事実があります。

これ等の経験から、私は超人的な意志というものを感じずにはいられないのです。 忠雄、とみ子夫妻の遺した木になる林檎を、私どもに久司君が毎年贈ってくれますが、昨秋は特に従来に例の無いほどの美味で感動しました。

或いは今回の叔母の逝去を忠雄氏が迎えに来た土産だったかもしれません。

この様な人知の全く及ばない、神仏のお力で、天国で、夫忠雄と、利子と、会って、とみ子叔母が、心安らかな眠りにつくことを祈るのです。