人工死産についてセンシティブな内容を含みます。


3/13日から入院して3/24日に退院。たった11日しか入院してなかったんだって思う。

正直退院後のその日のことは何も覚えてなくて、メンタルがとにかく崩れまくって家族が心配してお母さんの飛行機を最速でお姉夫婦が取ってくれた。


3/25に担当医、そのチーム、私たち含めた5人でビデオ通話で、今後についての話をしました。

産まれてきても生きていけるかわからない命、生きて行けたとしてもかなり赤ちゃんの体に負担がかかる病気とのことで、私たちは赤ちゃんをお空に見送る決断をしていました。


こんな残酷なことがあるのか、なぜ私の体では赤ちゃんを健康に育ててあげられなかったのか。知らないほうが良かったのか。後もうちょっとで生産期で生まれてくるはずだったのに。何がダメだったのか。こんなに元気に毎日動いてるのに、本当に赤ちゃんに病気があるのか。とにかく頭の中でこんなことを繰り返し考えては涙を流し続けました。


日本ではこの時期の人口死産は例外を除いて認められてないと思いますが、オーストラリアでは、本人たち 2人のドクター ソーシャルワーカーを含めた5人の承諾があれば認められるそうで、私たちを担当してくれてた親しみのあるドクターを筆頭にたくさんの方が動いてくれました。

まだ大きいお腹、赤ちゃんの胎動を感じながら、選択肢があったからこそこんな残酷なことをしていいのか、と本当に毎日考えてました。


3/27

早朝にお母さんが日本から到着

お母さんが見えた瞬間子供みたいに泣きながら抱きつきました。本当に来てくれてありがとう。この日は彼とお母さんと3人でステーキを食べに行きました。お母さんにおっきいお腹、まだ動いてるお腹を見てもらって私の赤ちゃんと会うことができて本当に良かった。


3/28

朝から行動。

何かベビのための形に残るものが欲しいと思って、自分自身にリングを買いました。今サイズ直しに出してるので、戻ってきたらベビの誕生日を内側に刻印する予定。あと、小さな植物も買いました。私たちの赤ちゃんの名前を付けてます。これで私のそばにベビはいてくれてると思ったらこれからの日々も頑張れる。そんな想いを込めて。

それからお昼12時に病院に。人工死産の過程は本当に言葉では表されないくらい辛い思い出です。

麻酔も無く、動いてはいけなかったので涙は勝手に流れてくるものの、必死に必死に息を整えながら地獄のような時間を耐えました。付き添い人1人のみ部屋に入れたので、彼のみ部屋に入ってもらい、母には待合室で待ってもらっていました。全てが終わったあと母も入室し、息ができないほど3人で声を出して涙しました。本当に辛かったです。

彼はずっとずっと私の手を強く握ってくれていて、隣で私と一緒に乗り越えてくれました。

普通の場合はこの後家に帰らされるようですが、私たちはメディケアを持ってないことを担当医が知っていたので、入院することになりました。(入院だと、この後に飲まないといけない高額な陣痛を誘発する錠剤も保険対象になるので)


それからは、担当医のチームの人たちが入院の手続きを全部済ませてくれていたので、そのまま入院病棟に行き彼に必要なものを家からもって来てもらいました。