今朝の通勤途中
 
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クリーニング屋の前にあった石
(よくよく眺めてると、コレは石じゃないような気がしてきた)

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相変わらずシクラメンは元気。
乱れ咲いていますね。
 
 

 
ところで、忘れていた(わけじゃないけど)
思い出したのは、私、けっこう石が好きなんです。
子供のころ、よく石拾いをしていました。
特に川原の石が私は好きです。
あの、灰色?のヤツ。
水に流れているところの石は
なんとなくキレイな気がするし
あの冷たさや、さわり心地が
なんだか好きだったことを思い出した。
というか、今でも石が好きで
気に入った石が売っていると
つい買ってなでたり鼻を近づけたりほおずりしたりして
ムフムフしていたりする。
もしかして、私、石フェチなんだろうか。
 
※それにしても、確かにこちら、改めて自分で石を拾おうとすると
素敵な石って落ちてない。
じっと眺めていたくなるような
なめらかな「石」ってないもんだ。
石のようでいて、私の思う石じゃないような。
もっともそこまで根つめて探してないけれども、、、。

 
で、それとは別に「石を拾う」という目標は
本来の「サバイバルのために」という目的は離れていたけれど(笑)
私には違う意味が生じていて、
気持ちを支えるにずいぶん心強いものとなっていた。
ずいぶんテイタラクな心地でいたり
もうこんなところにいてらんねえや、ってなんのやる気もないときに
(それも心地のよいやる気のなさではなくて)
「とりあえず今日は石拾いをしよう」
私には石拾いがある!とかって思えることが
決して石が見つからなかったとしても
もう充分に1日を過ごすためのエネルギーとなる。
 
それは、ただ単に石好きだから、というんじゃなくて
誰から聞いたものか、ってのが大きかったりする。
たとえばサバイバル先生と慕う人が私に居て
私がサバイバルをしようと思ったときには
そのサバイバル先生のサバイバル発言は私の中ではものすごい威力。
「石拾い」と先生が言えば
私は尊敬する人のまねっこが好きなんで
目的はズレたとしても
(というか、基本的に自分のしてみたいことしかしないわけで、
目的は「してみたかったから」ていうのが実際かも)
 
とにかくまねしてると思えるだけで
心強くなれるところがある。
・・・5歳児がおもちゃのウルトラマンベルトをまいたら
ウルトラマンになりきっているような心境か・・・。
 
前々からそうだけれども
私には言葉そのものよりも
「誰が言ったか」ってことがとても大きいみたいだ。
 
何もする気が起きないような
そして、それが決して気分のよいような状況でもないときに
自分の発動力となるものを
見つけられるというのは
それが物質ではないからなおさら
燃料が切れることはないし、消えることもない。
そしてそれはなんのリスクもないという。
コレはラッキーというか
いや、とてもラッキーなことなんだと思う。