破滅型または逃避型と、死または無による認識とは、日本人の認識方法の二原型のやうであつて、死を意識することによつて生命を認める点では似てゐるが、その方向は反対である。
即ち、前者は、社会の実生活から下降し、又は遁走し、また破滅することによつて生命を味はうとする傾きを持つてゐる。後者は、自分が死に直面してゐるといふ意識から生活と自然とを味つて生きようとする上昇的な生命観を持つてゐるのが常である。しかしこれは両者とも、その存在感の究極を無といふ永遠性の中に見出してゐるのである。そのことは、次のことを示してゐる。
人間は大地の上に立つてゐることを感じなければ安定しないやうに、危機に面した時には、自分の存在が何かの絶対なものと結びついてゐないと不安で耐へられなくなる。その絶対の形は一方の極が死または無であり、他方の極は完全性または神であるらしい。


さて、無の意識の上に、現在の生活を直感的な好悪で判断することで持続できる生活は、色々な条件が伴はなければならない。第一、好悪によつて物事を判断して決定する生活は、人間関係や仕事関係から言つて、他人と共に働く勤め人には持続できるものでない。
生活が危い人間は戦ふ外はない。中正は一般生活者には保持しがたいのが普通である。


宗教は、無の認識を原型とする道教でも佛教でも、また他者との調和を考へる儒教でもキリスト教でも、それが信仰を強め、信者をひろげてゆく活動期にある時は、有の働きをする、と私は考へる。現在のコンミュニズムも有の働きにおいては、宗教と同様であると私は考へてゐる。即ち有とは人間社会の調和、理想実現の可能性の確信、未来への信仰、努力と奉仕との価値の確認である。
存在の極が未来の理想社会に置かれてあり、それへの接近によつて生命感を実感するのである。この有の生命感と進化論以後の近代社会の論理とが結びついてゐる点で、コンミュニズムは最も強く現代人に働きかける有の思考型式であると思はれる。
日本の近代の知識階級に健全だと考へられる思考型式、たとへば志賀直哉的なものは、佛教や老子の思想が日本で形式化し葬祭の儀式化して生命を失つたあとに残した無の認識の型と、進化論以後の近代の自然科学的認識との結びつきである。これは、近代の東洋の他の国にも例が少いし、西洋の近代思考の原型であるキリスト教的他者の認識と論理との結びつきとも違ふところの、近代日本にのみ特有のものである、と私には考へられる。
日本の無の思考型は、明治二十年頃から多く輸入されたスペンサアなどの進化論的認識と結びついて、無、宇宙、微生物、植物、動物、人間といふ順で種み重ねられて現代日本の知識人の無信仰性を支へてゐる。我々が自然を愛し、草木を愛好し、自然性と調和した庭園や家屋や藝術を持つのも、我々の発想が自然感を通して無に連結し
て安定するからである。

ヨーロッパ人の装飾法、庭園が人工的で人間的であることはその逆である。世界各国の現代人のうち、日本の知識階級ほど、無信仰でしかも割合に混乱せずに生きてゐる人間集団は少いやうに思はれる。


さて、そのやうな無に直結した自然的存在感によつて支へられてゐる日本の知識人も、現実の現代生活の中では、自然人でなく社会人としての自己と他人を認識することを強ひられる。
日本の社会は自然的論理、即ち非抽象的、反イデー的な、所謂物質文明と呼ばれたものを進展させ、社会は急激に資本主義化された。そして抽象的な社会組織についての思考はその後から遅れて進んだ。
しかし我々の認識は、社会生活を自我と他我が組み合はされて論理的に理想形を作らうとする形での訓練に慣れてゐない。社会組織の論理的説明をするものとしてマルクシズムが流入した時、日本の知識階級者は、社会的思考の伝説と習慣とを持つてゐなかつたので、このマルクス主義的説明を殆んど純粋図式として受け入れた。この純粋図式と自然人的な好悪感情とが結びついて、急激に有を極とするコンミュニズムが知識階級者の心の中に形成され始めたのが大正末年から昭和初年にかけての頃である。
体験的伝統的な発想形式としては日本にはなかつた社会的生活認識が、突然純粋図式のマルクス主義によつて接ぎ木されたのである。それが弾圧された時、転向者は急速にそれから離れて破滅者として無の認識に落ちて行つた。さうでないものは、その図式をそのまま絶対君主制と結びつけて侵略的政治思想に転化し、近代思想以前の軍国主義に容易に変化した。


日本人の強い個我は他の人格から離れて無の上に孤立せる我である。

ヨーロッパ人の強い個我は、相対的人間性の調和力においての強い人格である。


相対的に人間関係を把握して、人間の調和を求めながら追求することは、極めて困難である。
また日本のやうに、目に見えない所まで、無の意識がひろがつて人間の思考を支へてゐる国で、人間関係を相対的に設定して見ても、元来は有の形でしか安定し得ない人間と人間の関係に、強い調和を望むことはできないかも知れない。また日本のやうに人格が容易に孤立して神秘性を帯びて絶対化することで安定してゐる国土で、相対的な調和を求めることは、それ自体、雇傭関係、夫婦関係、社会階級関係等において危機意識を深め、不安定な気持に人間を陥れるものである。
しかし、相対的関係において考へない以上、社会的な人間像は実在化し得ない。この相対的な関係、即ち善悪の判断の動揺性、貞操や服従関係の変動性等を是認することは、人間関係に不信を呼び出し、自己の立場を危く感ぜしめ、人間はそれに抵抗して、全か無かの極点に自己を近づけることによつて安定しようとする強い衝動を持つやうになる。
エゴの変転とエゴの食ひ合ひを免かれて安定しようとする時、人間は死または無を願ふか、絶対なる神に自己をつなぎとめることしかあり得なくなる。


資本主義の自己保存の方便的政策の中にも、またそれに対抗して民衆を生かさうと狙ふコンミュニズムの政策の中にも、これと同様な認識が隠されてゐるやうである。即ち最終の善はどのやうな手段をも正当化するものであり、それに耐へることが規律である。真実は相対的なものでしかあり得ない。近代ではこのやうな認識が、人間性自体の中にも見出された。
好悪、愛憎は本質的な判断たり得ない。それは生活の条件によつて、また潜在意識によつて、左右されるものである。このやうなものとして政治や社会を考へ、人間性を考へることは怖ろしいことである。。しかし近代の日本文学もまた、次第に、真実の相対性、人間意識の相対性の中に真理を見出さうとする傾向を持つて来た。即ち、心理的内面から言つても物的外面から見ても、個我の本当の確立といふことはあり得ない、それは物的条件によつて変へられる弱いもので、神またはそれに代る絶対的有の思想に依拠しない限り、不安定で崩壊するものかも知れない、といふ真実を、怖る怖る手さぐりし出した。
 
斎藤緑雨の『かくれんぼ』、夏目漱石の『心』、『明暗』、幸田露伴の『運命』、有島武郎の『或る女』、秋声の『仮装人物』、芥川龍之介の『或る阿呆の一生』、谷崎潤一郎の『卍』、横光利一の『機械』、牧野信一の『裸蟲抄』、川端康成の『禽獣』、太宰治の『人間失格』等がその系統の認識を辿り得る作品である。
これ等のうち、牧野、太宰等は明確に破滅型の文学であり、川端の『禽獣』は藝術至上主義的特色を持つてゐるが、いづれも正悪の観念や人格の観念の確立に対する疑ひによつて、人間性の相対的弱点を曝露してゐる。さういふ現実にぶつかつた日本の作家は、人間性を社会的な調和感で支へることが出来なくて、そこから無または死の方向に下降して作者は自殺し、でなければ破滅、または東洋的無の意識で安定してゐる。


このやうな人間の存在の相対性の認識は、日本では、人間の組み合はせのグループから起るものとして考へられず、時間の経過といふ並列の形で把握される。即ちそれは、個なる存在が無に落ちてゆくことを次々と反復させることで、タテの系列の存在の相対性をさぐる方法であつた。はかなさ、無常といふ種類の観念によるものである。グループとして考へることは、ヨーロッパ的である。
そこには、人間が他の人間と結びつく形で、即ち人間の相互認識が根本にある所で行はれる。
グループ的な形では、人間の変化は他者との組み合はせ、即ち他の人間によつてもたらされる。
日本的並列では、変化をもたらすものは時の経過であつて、非人間的な力によつてもたらされる、と考へるのである。社会的存在としての人間の論理を伴つた調和感を作り出すことは、日本人には不可能なのであらうか。

音楽で言ふと、日本には諸音の調和的構造なるハーモニイ形式がほとんどなく、メロディーの継起のみが主である、といふ点でもそれが確かめられるやうである。
(昭和二十八年二月-三月)