1.序
月読神社は南九州より移住した隼人の居住地「大住郷」に鎮座している事から、彼らによって祭祀されていた社と考えられる。社地は京都府南西部に位置する京田辺市大住に立地している。社伝によると九世紀創建と伝わる歴史の古さもさることながら、この神社は近年芸能に関わりの深い場所として注目されている。
すなわち大住の地に居住した隼人たちが天皇即位式大嘗会のとき演奏した隼人舞や能楽との深い関わりのある場所として、月読神社は地域の住民たちによって現在も大切に守られている。
2.建築的特徴と沿革
月読神社の本殿は東に面する一間社春日造、屋根は銅板葺きの建物で、明治二六年(1893)に名古屋の棟梁の伊藤平左衛門によって設計された。屋根はもともと檜皮葺であったとされている。現在の屋根は銅板葺であるが棟は瓦葺きとなっている。千木・堅魚木は持たない。軒は地垂木と飛檐垂木の二重につくっている。この垂木を二重にする工法によって軒の出を深くしている。
背面には華美な装飾は少ないが、正面には若干の装飾がみられる。
身舎の正面から前方にはね出した桁は側面側の蟇股と虹梁とによって支えられている。
蟇股は曲線を繰り返したもので、側面に絵様を持つ。また彩色のあとがみられるが、ほとんどが褪色しており、わずかに白色が残るばかりである。
虹梁は側面に絵様を持っている。渦と若葉から構成されているが、深さも深く幅も広い。渦の形状はやや楕円形であり、若葉の根元には渦に接している。これはこれは十七世紀中頃の形状に近いものである。⑴
正面の虹梁は中央部分を上方に大きく反らした特殊な形状を持ち、さらに木鼻には獏を形取った形状を持つ。この木鼻は、上に斗を乗せさらに上の舟肘木を受けて、連三斗の形状になっている。ここでもまた彩色のあとがみられ、白色のみが残っている。
木鼻に龍や象・獏などの具象彫刻は十七世紀前半から徐々に複雑化していき、十八世紀中期にピークを迎える。⑵
このように細部の形式を検討した場合、十七世紀の中頃から十八世紀中頃の様式を参考にしていると思われる。
また、春日造は奈良の春日大社の本殿の形式である。この形式の本殿を持つ神社は歴史的に春日大社や興福寺との関係があるといわれている。この大住の地は、中世には興福寺領であったのであり、この事が神社本殿の建築様式にも影響を与えているのである。
同じ大住地区に位置し、月読神社とも関係が深いとされている天津神社や隣の薪地区に位置している棚倉孫神社の本殿は、一間社流造であり、このことはこの大住地区の中においても月読神社が中世から近世を通して特に興福寺との関係が深かった事を物語っている。『吾妻鏡』によると、「石清水八幡宮与興福寺有確執、(中略)、是薪、大住両庄用水相論之故也云々」とあり、興福寺領の荘園であった大住庄と石清水八幡宮領の荘園であった薪庄との争いの記事がみえている。
一方、明治維新の際には石清水八幡宮が戦災を避けて一時的に月読神社に遷座した事もあった。現在では絶えているものの、この時の報酬として毎年神饌料として玄米一俵を八幡宮から月読神社へ納めていた時期もあった。
このように、月読神社が中世より興福寺との関係が深かった事が文献上からも確認する事が出来るが、それ以外にも八幡宮との関わりも見出す事が出来る。
九世紀には創建していたと思われるが、中世に度々兵火によって焼失を繰り返しており、その社殿形式は古代のものを伝えているとは言い難い。
現在の社殿形式のルーツを考察する手掛かりとして、境内の鳥居に記されている享保一九年(1734)の銘文も参考になる。ただし、この銘文だけでは本殿がこの時に同時に再建されたとの確証にはならない。しかし、この銘文は先に述べた本殿虹梁の木鼻の形状から推定される建築時期が宝暦前後(一八世紀中頃)であるという事実と一致する。ただし、虹梁側面の渦と若葉の図様は一七世紀中頃の形状に近いものであるから、十八世紀の改修の時に絵様は継承されたものと思われる。
つまり、現在の本殿は中世に焼失を繰り返した後に、十七世紀中頃に再建され、その後、十八世紀中頃にも修復を加えられたものと私は考える。
社伝による中世の月読神社の興亡にも触れておきたい。
建久六年(1196)に、源頼朝が上洛した際に神馬を献上されるとともに、松井及び河内、交野郡招提を神領として寄進されている。さらに、貞応二年(1222)に鴨武隅命の嫡子の葛野家友によって社殿が再興されている。
しかし、元弘元年(1331)に、後醍醐天皇が幕府に背いた時に、大住一族が天皇側に味方した為に、大住の地は戦乱に巻き込まれ、月読神社も兵火にかかったとされている。
貞治三年(1365)に葛野氏によって再び復興されるが、またしても至徳三年(1387)に兵火にかかっている。
康応元年(1390)に再び社殿は修復され、天文十一年(1542)に大住城主等がこの月読神社において勧進能を行ったとされている。
しかし、この後の記録はみられず、先に述べた虹梁の図様から現在の社殿のルーツを探る他ない。
このほか、明治八年頃の古図によれば、この時には既に春日造の本殿がみえ、社殿が明治二六年の修築以前から春日造の本殿であった事がわかる。さらに、この古図によれば、現在の神社と明治八年時点との相異点も見えてくる。
⑶
現在本殿の南側に位置している、薬師堂跡地の石碑が立てられている所には、四間×三間の入母屋造瓦葺の薬師堂が存在していた。この薬師堂は明治の神仏分離の際に取り壊されてしまった。しかし、この薬師堂には月読神社の創建時期を知る手掛りとなる文化財が残されていた。この薬師堂は木造薬師如来立像を本尊としていたが、この仏像は薬師堂が取り壊される際に同じく京田辺市大住に位置する両讃寺に移されている。この仏像は平成八年度から京田辺市教育委員会が市内の寺社を対象として行った仏像を中心とした美術工芸品調査によって、平安時代前期(九世紀)の精神風土と造形の関連を持つ作品とされている。⑷
この事実は月読神社が、平城天皇が大同四年(八○九)に譲位後に、宮殿を平城京に移して平安京を廃止する詔勅を出した折(薬子の変)に、造宮使がその途において大住山に霊光を拝し、この地に神殿を造ったとされる時期に矛盾しない。『三代実録』貞観元年(八五九)正月二七日条に叙された諸神の一つに「樺井月読神」がみえ、『延喜式』神名帳には「月読神社 大、新嘗 月次」がみえる。明治初年までに廃亡したが、この薬師堂を含めて月読神社は、江戸時代末までは神宮寺の法輪山福養寺が管理していた⑸。貞観元年(八五九)までに月読神社と呼ばれるようになる当神社の神宮寺である福養寺の薬師堂に九世紀の特徴を持つ仏像が伝えられていた事は重要な意味を持つと言えるだろう。
さらにもう一点触れておきたい。先述の古図によれば、明治八年時点で月読神社の本殿は赤く塗られている。先にみた蟇股や木鼻の褪色あとの白色は赤色が褪色したものと考えて良いだろう⑹。明治の修築の際にも赤く彩色が施されたものと考えられる。
まとめ
これまで見てきたように、月読神社は九世紀頃に創建され、その後何度も兵火にかかりながら廃絶する事無く、現在まで再興を繰り返しながら伝えられてきた神社である。
それはこの月読神社が時の権力者だけでなく、この大住の民衆に身近で大切な存在であり続けたからに他ならない。
それを示す事例として、当神社には民衆に身近な芸能にまつわる伝承が残されている。
大住の地は天武天皇の頃に鹿児島の大隅の地より隼人が移住した場所とされている。その隼人等が天皇即位の大嘗会の時に奉納した隼人舞は、その後宮中において奉納される事は無くなるが、月読神社には奉納され続けてきたとされている⑺。
また能楽にもゆかりの深い場所とされている。この京田辺の地は一説では大和の金剛座以外の能楽の発祥地とされ、月読神社は宝生座発祥の地とされている。現在、神社境内には宝生座発祥の碑が建てられている。
このように月読神社は芸能との関係が深い。特に「隼人舞」は近年再現され、毎年十月十五日の例祭に奉納され継承されている。
古くから大住の住人達によって守られ、伝えられてきた月読神社は、隼人舞と共にこれからも大住の住民によって大切に守られ伝えられて行く事であろう。
註
⑴文化庁歴史的建造物調査研究会『建物の見方・しらべ方 江戸時代の寺院と神社』、ぎょうせい、1994
⑵註⑴に同じ。
⑶京都府立総合資料館蔵「延喜式内並国史見在神社考証」。
⑷京田辺市教育委員会編『京田辺市の仏像』、明新社、2007。
⑸西田直二郎『京都府綴喜郡大住村史』、田辺町大住出張所、1951。
⑹註⑴に同じ。
⑺大住隼人舞保存会編『大住隼人舞の由来』、2003。
中村明蔵『隼人の古代史』、平凡社、2001。
・補足
両讃寺の木造薬師如来立像について
明治時代まで月読神社内の福養寺にあった木造薬師如来立像は、現在は、京田辺市大住八河原に秘仏として安置されている。
木造薬師如来立像は、木造(カヤ材か)の一木造り、彫眼、素地仕上げである。頭体のほとんどと台座蓮肉とそこから下に伸びる心棒を、木心を前方に外した一木から造り、両手首先を矧ぐ。頭髪、ひげ、瞳には墨、白目部分に白、唇に朱を彩色する他は素地であるが、現状では衣文の溝に黄色の顔料が少々残る。
頭は螺髪をつけた痕跡が見られず、もとから素髪であったと思われる。
細面で細い鼻梁で強い表情を持つ。薬壺を持つ左手、掌を前に向ける施無畏印の右手は、ともに後補であるが、当初から同じ構成であったと思われる。着衣の縁の折りたたみは複雑であり、深い衣文は左胸脇や脚間にU字形の繰り返しをつくる。
こうした特徴は、京都の神護寺薬師如来像などにも見られる特徴であるり、平安時代前期(9世紀)の精神風土と造形の関連をうかがわせる。
参考文献
1.京田辺市の仏像、京田辺市教育委員会、平成19年。
2.日本仏像史、水野敬三郎、美術出版社、2001年。
3.奈良・京都の古寺めぐり、水野敬三郎、岩波書店、1985年。






