マルコによる福音

 〔そのとき、〕6・1イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。2安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。3この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。4イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。5そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。6そして、人々の不信仰に驚かれた。

 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

 

 イエスが故郷のナザレの会堂で教えはじめると、その教えを聞いた多くの人々は、幼い頃から見知っているイエスがどこからその教えを受けたのか、なぜ奇跡ができるのかとイエスにつまずきました。

 20世紀の神学者、バーナード・ロナガンは「スコトーシス」という概念を提唱しました。「スコトス」とはギリシャ語で「暗闇」という意味です。

 ロナガンは、「スコトーシスは、起こってほしくないさまざまなひらめきを起こしうる視界の広がりが、意識にのぼってこないように妨げる異常である。」

 イエスは、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」(マル8:10)と言いました。

 イエスの故郷ナザレの人たちは、自分たちが知っていると思い込んでいるイエスにこだわり、「見ても見えず、聞いても理解できない」状態に陥っていました。

 スコトーシスに陥っている本人には、その自覚がありません。

マルコによる福音

 〔そのとき、〕5・21イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。22会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、23しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」24そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。

 大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。25さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。28「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。31そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」32しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。33女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。34イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 35イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」36イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。37そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。38一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、39家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。41そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。42少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。43イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

 

 会堂長のヤイロの臨死状態の娘のいやしの物語に、12年間出血症に苦しめられた女性のいやしの物語が挿入されています。

 マルコがヤイロという名を挙げるのは、ヤイロが当時、ユダヤ社会でよく知られている人物だったからかもしれません。会堂長は地域のユダヤ社会の指導者です。その人がイエスの足もとにひれ伏して娘を助けてくださいと懇願する姿に、ヤイロの必死さが現れています。イエスはヤイロの願いに応じて共に彼の家に行きます。

 ところがその途中12年間も出血症で苦しむ女性が、後ろからイエスの服に触れるとたちまち出血が収まります。イエスが自分に触れたものを見つけようとすると、娘が進み出てひれ伏します。イエスはその娘に、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言いました。

 ヤイロはその様子をどんな気持ちで見ていたでしょうか。すると、会堂長の家から人々が来て、娘は死んでしまったことを告げます。

 愛娘が死んでしまったという知らせに、絶望するヤイロにイエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」言います。

 ヤイロの家に着いたイエスが、娘の死を悼み騒ぐ人たちを去らせ、少女の手を取って「タリタ、クム」というと、少女は起き上がり歩み始めました。

 

 社会的地位のある会堂長ヤイロの娘の蘇生の物語と、祭儀的に不浄だとされ、彼女の触れるものと彼女が触れたものに触れる者も穢れると排斥される生活に12年間も苦しめられた女性のいやしの物語が入れ子になっているのはなぜでしょうか。

 

 必死の思いでイエスの服に触れた出血症の女性にイエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言いました。愛娘が死んだという知らせにうなだれるヤイロにイエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」とに言い、少女を蘇生させました。

 

 イエスの言う信仰とは、特定の教義を信じることではなく、ひたすらイエスに信頼する個とだと教えられます。

 

 福者ユスト高山右近殉教者については女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=020304

ルカによる福音

 

 2・22モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。23それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。24また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。

 25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。26そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。27シメオンが〝霊〟に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。28シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

 29「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。30わたしはこの目であなたの救いを見たからです。31これは万民のために整えてくださった救いで、32異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

 33父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。34シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。35――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

 36また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、37夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、38そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

 39親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。40幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

 

 主の奉献は、ヨセフとマリアが律法に従って幼子イエスをエルサレムの神殿に連れて行き、神に捧げた出来事を記念する祭日です。

 ルカ福音書は聖霊の働きによって救いの物語が展開していきます。シメオンは霊に導かれて神殿に入りイエスを腕に抱き、イエスは「異邦人を照らす啓示の光」であると預言しました。

 以前は、この日、信者は各家庭祭壇で使うロウソクを教会に持ってきて祝別してもらいました。それは、暗闇を照らす「光」としてイエスが世界に現れたことを象徴します。

 

 カトリック教会の教会の祈り(聖務日課)の寝る前の祈りで「シメオンの歌」を祈ります。この祈りを唱える度に「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という論語を思い出します。

 

 主の奉献については、女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=020201