マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕6・19「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。20富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。21あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。

 22体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、23濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

 

 イエスは「あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」と言います。目が澄んでいれば、さまざまな物事をその通りに見ることができますが、心が「傲慢」「自己保身」「極端な偏見」に蔽われてしまうと、光が消えた状態になります。

 スコトーシスという言葉をご存じでしょうか。スコトーシスとは、もともと医学用語で「暗点(視野の中で見えない部分)」を意味する言葉ですが、心理学や認知科学においては「知識や思い込み、重要性の評価によって、目の前にある現実が脳に認識されなくなる現象(心理的盲点)」を指します。

 イエスが「その暗さはどれほどか(どれほど深い闇か)」と恐れた理由こそ、まさにスコトーシスの性質そのものです。

 人間は、物理的な暗闇(知らないこと)に対しては「見えないから気をつけよう」と警戒できます。しかし、スコトーシスによる暗闇は、「見えていないこと自体が、本人には見えない」のです。

 イエスと対峙する律法学者やファリサイ派の人々はスコトーシスに陥っています。

 スコトーシスの怖さは「見えていないこと自体が、本人には見えない」ところにあります。わたしたちもスコトーシスに陥っていないか、イエスの言葉で、日々点検する必要があります。

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕6・7「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。9だから、こう祈りなさい。

 『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。10御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。11わたしたちに必要な糧を今日与えてください。12わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。13わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

 14もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。15しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 

 イエスが弟子たちに教えた祈りは「主の祈り」としてキリスト教会では大切にされています。祈りと言えば、神に願いごとをすることだと考えがちですが、「主の祈り」の前段は、天におられる父に向かって、御名があがめられること、御国が来ること、御心が行われることを願います。

 この祈りはイエスご自身が絶えず唱えていたのではないでしょうか。

 イエスはゲッセマネで父である神に「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈りました。

 「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」という祈りは「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」というイエスの祈りに生活の座(Sitz im Leben)があると教えられました。

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕6・1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。4あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。

 5祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。6だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 16断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。17あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。18それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

 

 人から偽善者と言われることは、非常に強い侮辱(あるいは痛烈な非難)として受け止められるのが一般的です。言われた側が深く傷ついたり、激しい怒りを覚えたりすることがほとんどでしょう。

 イエスは立派な人物のように見せかけながら、その実は真逆の生活をしているユダヤの指導的立場にある人を偽善者だと指弾します。それは彼らの回心を望んでのことだと思います。