ヨハネによる福音
20・1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
イエスの復活はわたしたちの言葉ではとらえることができません。弟子たちは果たして何を体験したのでしょうか。彼らは自分たちの中でイエスが活き活きと働いておられることを体験したのではないでしょうか。
第1朗読は使徒言行録のペトロの説教です。
ペトロは「イエスが死者の中から復活した後、わたしたちはイエスと一緒に食事をした。」と証言します。イエスの死者の中からの復活という表現は、起こった事態を説明するには十分ではないと思われますが、空前絶後、前代未聞のことが生じた際、それを適切に言い表す言葉がないことも事実です。
弟子たちは自分たちが裏切り、ローマ軍によって十字架刑に処せられ、墓に葬られたイエスが、自分たちと共にいて食事をしたと証言します。彼らは共にパンを裂き合うとき、イエスが共におられることを実感しました。
第2朗読は使徒パウロのコロサイの教会への手紙です。
パウロは、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」といいます。このパウロの表現は、イエスの洗礼を思い出させます。
ルカ福音書は、イエスが洗礼を受けて祈っておられるとき、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」と述べます。
わたしたちにとっての「復活」とは、わたしたちが死んだ後に起こる出来事ではなく、洗礼を受けることによって、聖霊に満たされ、父である神から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と認めていただき、神の子、イエスの兄弟姉妹として生きることではないでしょうか。
福音はヨハネ福音書の空の墓の記事です。
安息日が明けた最初の日、マグダラのマリアが朝早くイエスの墓を訪ねます。このマグダラのマリアは、「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」(ヨハネ19:25)と書かれている人物です。マグダラのマリアの詳しいプロフィールは分かりませんが、弟子たちが逃げ散った中で、彼女がイエスの母マリアと共に十字架のそばに踏みとどまっているのは、イエスを心の底から愛していたからです。
出会いの福音書
ヨハネ福音書では、大勢の人がイエスに出会います。弟子たちをはじめ、ニコデモ、井戸の側のサマリアの女、ベトサイダの池にいた病人、生まれながら目の見えない人、マリアとマルタ、マグダラのマリア、ファリサイ派の人々、律法学者、アンナス、カイアファ、ピラトもイエスに出会いました。
光と闇
ヨハネ福音書では、ひとびとは、イエスに出会って、光の方に来るか、光に背を向けて、闇にうずくまるかの選択を迫られます。様々に異なる応答の物語があります。
ヨハネ福音書冒頭の序文の一部(1:5)を新共同訳は、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」としていますが、ヨハネ文書の専門家小林稔神父は「その光は闇の中にあって輝いている。闇はこの光を阻止できなかったのである。」としています。
どんなに闇が深いものであったとしても、闇は光に勝つことはできないというイメージは復活徹夜祭の光の祭儀を思い起こさせます。
ルカによる福音 24:1-12
1週の初めの日の明け方早く、婦人たちは、準備しておいた香料を持って墓に行った。2見ると、石が墓のわきに転がしてあり、3中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。11婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
教会で行われる典礼でもっとも荘厳な祭儀は、復活の聖なる徹夜祭です。今日の典礼は、それに参加するわたしたちにキリスト教の核心を明らかにします。
第1部は光の祭儀、第2部は言葉の典礼、第3部は洗礼と堅信、第4部は感謝の典礼です。死の闇から復活の光が輝き出す典礼は、荘厳でありつつ美しいものです。
この復活徹夜祭でひとりの方が入信の秘跡を受けられます。これまでの生活の中でイエス様と出会い、イエス様と共に生きる決意をした方と共にわたしたちも自分の洗礼の約束を更新します。
第1部の光の祭儀では、闇の中で光が生まれ、復活のロウソクに灯され、わたしたちは「キリストの光」、「神に感謝」と唱和しながら、みことばの祭壇である朗読台に復活ロウソクを安置し、「復活賛歌」を歌いました。
第2部の言葉の典礼では、旧約聖書からの朗読のうち四つが朗読されました。それはイエス・キリストへと続く神の救いの物語でした。続いて、栄光の賛歌が高らかに歌われ、使徒パウロのローマの信徒への手紙が朗読されました。パウロは「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」と語ります。
それはまさに今日洗礼をお受けになる方へのメッセージです。
その後イエス・キリストの復活をたたえるアレルヤ唱が歌われ、ルカ福音書が朗読されました。
週の初めの日の明け方早く、婦人たちがイエスの遺体を処置しようと香料を持って墓にいきます。すると墓を閉じていた石がわきに転がされ、墓に入ってもイエスの遺体が見つかりませんでした。彼女たちが途方にくれていると、神の使いが現れ、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」と告げます。
彼女たちが墓から戻り、十一人をはじめとして弟子たちに神の使いの言葉を伝えても、使徒たちはその話をたわ言だと思い、婦人たちの言葉を信じませんでした
ペトロが立ち上がってイエスの墓に走りましたが、墓にはイエスを包んでいた亜麻布しかありませんでした。
復活の物語はどれも弟子や婦人が気づかない間にイエスが共におられ、イエスの方から声がけされることによって、生きておられるイエスの存在に気がつくという構造を持っています。
ひとこと
復活は神の出来事であり、その事態を人間の言葉で捉え尽くすことはできません。死んだ人間が同じ姿で生き返るとしても、それは蘇生であり、復活ではありません。イエスの復活は信仰の神秘です。
わたしたちの復活はわたしたちが神のいのちにつながれて生きることではないかと思います。今、生物学的に生きていたとしても、その人が、神とのつながりを欠いているなら神の前には死んでおり、臨死の状態にあったとしても、神とのつながりの中で生きるなら、人からは死んだも同然のように見えても、神と共に生きているのだと思います。さらにたとえ死んだとしても神と共に生きているとイエスは言います。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と尋ねるイエスに対して、洗礼志願者と共に「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と答えましょう。
聖金曜日は主の受難を記念する日です。カトリック教会はこの日、ミサを行いません。
受難の朗読の後、盛式共同祈願、十字架の礼拝、聖体拝領が行われます。
第一朗読はイザヤの預言です。イザヤ書には「主のしもべの歌」が四つあります。本日の朗読は四番目の「しもべの歌」です。イザヤの時代、この「しもべ」が誰を指していたのかは明らかではありませんが、キリスト教徒はこのしもべにイエス・キリストの姿を見てきました。
「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」(53:5)。
「多くの人の過ちを担い背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」(53:12)。
第二朗読はヘブライ人への手紙です。著者は、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。……そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となったのです。」と言います。私たちはこの方こそ救い主と信じています。
本日の福音朗読は、ヨハネによる主キリストの受難を、朗読劇の形で行います。聖金曜日はイエスの受難のドラマが再現される日です。
V・フランクルは人間の本質を苦悩することにあるとし、HOMO PATIENSと言います。イエスこそHOMO PATIENSの方でした。しかし、イエスはその苦しみの中で、父である神が共にいてくださることを信じておられたと思います。
世界中で理不尽な災難に見舞われ苦しむ人々の姿に、私たちはイエス・キリストの姿を見いだすことができます。