ヨハネによる福音

そのとき、19・25イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。26イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。27それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 28この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。29そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。30イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

31その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。32そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。33イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。34しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。

 

新共同訳では、

それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

と訳されていますが、小林訳では、

ついで、その弟子に言う、「ご覧なさい、〔これが〕あなたの母だ」。その時から、弟子は彼女を自分のところに迎え入れた。

と訳されています。

原語には、家という言葉はなく、「彼女を自分自身の母とした」と訳すこともできそうです。

カトリック教会では聖母マリアを自分たちの母として敬います。

 

教会の母聖マリアについては、中央協議会HPの教会の祈り読書の第二朗読に、第二バチカン公会議第三会期閉会に際しての福者教皇パウロ六世の演説が掲載されています。テーマは教会の母聖マリアです。

https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2018/05/201804maria-2_2.pdf

ヨハネによる福音書 14:15-16, 23b-26

 

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕14・15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

23bわたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

 

 今日は聖霊降臨の主日です。聖書と典礼の表紙には、「炎のような舌が別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった」という使徒言行録の言葉が記されています。

 

 第一朗読は使徒言行録の聖霊降臨の場面です。「五旬祭」はユダヤ教の過越の祭から50日目にあたる祭で、モーゼがシナイ山で十戒を受けたことを記念する日でした。その日、弟子たちが一つになって集まっていると、激しい風が吹き、家中に大きな音が響き、炎のような舌が弟子たち一人ひとりの上にとどまりました。すると、彼らは聖霊に満たされ「霊」が語らせるままに、他の国々の言葉で語り出したと記されています。他の国々の「言葉」と「舌」はもとのギリシャは同じ単語です。

 このような表現で、聖霊に満たされた弟子たちが、人種や言語の違いを超えて人びとを結び合わせる力のある「新しい言葉」を語り始めたようすが述べられています。

 

 第二朗読は使徒パウロのローマの教会への手紙です。パウロは、「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」と言います。

 パウロがいう「肉」と「霊」とは何を指しているのでしょうか。「肉に従って生きる」とは、自分の努力で律法に従って生きることであり、「神の霊によって導かれて生きる」とは、キリストの霊に導かれる信仰によって生きることではないでしょうか。お手元の聖書と典礼の下段の解説には、「肉」は神とのつながりなしに生きること、「霊」は神によって生かされることとあります。イエスの洗礼の時、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」とルカは語ります。イエスの宣教の力は聖霊の力でした。その聖霊が弟子たちに注がれることによって、弟子たちは聖霊の力で生かされることになります。

 

 福音はヨハネ福音書のイエスの告別説教から朗読されました。

 イエスは受難を前にして弟子たちに「父は別の弁護者を遣わ」すと約束します。弁護者と訳されているもとの言葉は、聖書と典礼の解説にあるようにパラクレートス「そばに呼ばれた者」で、ヨハネ文書だけで使われる言葉です。イエスの弟子が逮捕、尋問されるとき、イエスご自身がそばにいてくださるのはもちろんですが、聖霊がそばにいて「すべてのことを教え、イエスが話したことをことごとく思い出させてくださる」とイエスは約束します。

 

 聖霊降臨は教会の誕生日とも言われます。モーセがシナイ山で十戒を受け、神の民が誕生したことを記念する日であった五旬祭は、聖霊がイエスの弟子たちの上に下り、新たな神の民が誕生する日となりました。

 聖霊降臨を祝う、私たち一人ひとりに聖霊が下り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言されます。

 私たちは聖霊の確証を受け、イエスが与えた使命を果たすよう生きます。

 神の言葉は真実で変わることがありません。わたしたちが生きているかぎり、順境の時も逆境の時もわたしたちは、神が愛される子であり、神の心にかなう者なのです。

 たとえわたしたちが罪を犯し、神を裏切ることがあったとしても、この神の約束は揺らぐことがありません。

 

 教皇フランシスコは2024年の聖霊降臨のミサの説教で、『使徒言行録』が語る「聖霊降臨」の出来事(使徒言行録2,1-11)から、「力強く」同時に「優しい」聖霊の働きを語られました。

 しばしば聖書の中で神の力を表現する際に見られるように(参照 出エジプト19,16-19)、「激しい風」と「炎」にたとえられる聖霊は、わたしたちの中で「力強く」働いています。

 この聖霊の強い力がなくては、悪を打ち負かすことも、聖パウロが言う「肉の業」、偶像礼拝や、不和、ねたみに勝つこともできません。

 わたしたちの中で働く聖霊は、また「優しい方」でもあります。

 聖霊降臨の「風」と「炎」は、それに触れる者を破壊することも、灰にすることもなく、風は弟子たちが座っていた家中を満たし、炎は舌のように分かれて、一人ひとりの頭の上にそっと留まりました。

 弟子たちの上に降りた聖霊は、彼らの心を変え、弟子たちのイエスとの体験と、弟子たちに息づく希望を他者と分かち合うための「大胆さ」を植え付けました。

 わたしたちもこの大聖堂という「高間」から、地理の上だけでなく、民族や、宗教の壁をも超えて、聖霊と同じ強さと優しさをもって、福音をすべての人に伝えるように招かれていますと訴えられました。

 

 教皇レオ四世は、教皇職に就くとき、人と人とを隔てる壁を作るのではなく、人と人とをつなぐ橋を作ろうと呼びかけています。その橋を作る力を聖霊によっていただくことができるように祈りましょう。

ヨハネによる福音

〔そのとき、〕21・20ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。21ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。22イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」23それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。

 24これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。

 25イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

 

 イエスが、ペトロを教会のいしずえとしたことに感謝します。わたしの理解では彼は欠点だらけであり、イエスの受難の時には三度もイエスを否んだ人物です。

 イエスが彼を選んで教会のいしずえとしたのは、他の弟子よりも彼に優れたところがあったからではないと思います。

 コンクラーベで、枢機卿たちは教皇フランシスコの後継者を選ぼうとしたのではなく、ペトロの後継者を選ぼうとしたと、コンクラーベに参加した菊地枢機卿は述べています。

 

 ヨハネ福音書の最後の言葉は、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」

 

 キリスト教会の福音書は四巻だけですが、この世界においてイエスのなさったこと、各キリスト教共同体、家族、個人においてイエスのなさったことは、増え続けていると思います。