ルカによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕12・39「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。40あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

 41そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、42主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。43主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。44確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。45しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、46その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。47主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。48しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

 

 「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」というイエスの言葉を聞いて、ペトロは「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」とイエスに尋ねます。

 イエスのたとえはイエスに付き従う自分たちに宛てられているのか、イエスの話を聞きに集まった群衆に宛てられているのかとペトロはイエスに訊いているように思います。

 それを受けたイエスの言葉は、明らかに後のキリスト教会の指導者たちに宛てられたものだと思えます。

 今日も、イエスは「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」と、キリスト教会の指導者たちに言っておられます。

 託された責任を果たすよう努めたいです。

ルカによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕12・35「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。36主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。37主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。38主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」

 

 イエスの弟子たちへの教えが続きます。

 少年少女のスカウト活動を始めたベーデン・パウエルはスカウトのモットーを「備えよ、常に」(Be prepared)としました。彼は、このモットーについて、「予期せぬ困難や非常事態に対して、肉体的にも精神的にも準備ができていなければならない」と説明しています。

 彼は、ルカ福音書のこの箇所を思い浮かべていたのではないかと思います。

ルカによる福音

 〔そのとき、群衆の一人がイエスに言った。〕12・13「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」14イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 

 メメント・モリという言葉があります。最近は同名のゲームもあるようですが、この言葉は、ラテン語の「死ぬことを覚えていよ」という意味です。

 「メメント・モリ」の概念的な起源は、古代ローマの凱旋式にあるとされます。

 凱旋式で勝利を収めた将軍が市中を行進する際、彼の後ろには奴隷が立ち、高揚しすぎた将軍に対し、 ”Memento mori” とささやいたという伝説があります。

 これは、今日の栄光が永遠ではないこと、そして将軍自身も一人の人間に過ぎず、いつか必ず死を迎える運命にあることを思い出させるためのものでした。

 中世ヨーロッパに入ると、このフレーズはキリスト教の教えと結びついて、その役割が強化され、広く普及しました。

人生のはかなさを説き、現世の富や快楽に執着せず、死後に訪れる神の審判に備え、魂の救済のために生きるよう信者を戒める教訓となりました。

 

「主よ、私をあなたのみ手にゆだねます」という日まで、日々を感謝して生きたいです。