ルカによる福音

 〔そのとき、〕17・20ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。21『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」22それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。23『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。24稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。25しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」

 

「 神の国」、「天国」という言葉から連想されるのは、位置、場所のイメージです。

 「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」というイエスの言葉は私たちのイメージを打ち壊します。

 「神の国はあなたがたの間にある」をどのように受けとめたら良いでしょうか。

 イエスが弟子に与えた掟、「私があなたがたを愛したように、あなたがたは互いに愛し合いなさい」を実践するとき、神の支配が明らかになるのではないかと思います。

 神の掟が支配する世界のことを神の国、天の国というだと思うのです。

ルカによる福音

17・11イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。15その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」19それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 

ルカ福音書では、イエスが癒やされた人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」という場面はこの箇所の他に、もう一箇所は18章のエリコの盲人のいやしの場面です。

イエスがこの言葉をかけるとき、単に「病気が治ったから帰りなさい」と言っているのではなく、「肉体が治っただけでなく、あなたの魂も罪から解放され、神との正しい関係に入った」と宣言しているのです。

特に、感謝に戻ってきたサマリア人に「あなたの信仰があなたを救った」とイエスが言うとき、ユダヤ教社会で救いとは無縁と差別されていたサマリア人のこの人に神の救いが訪れたことを示しました。

 

聖ヨサファト司教殉教者については、女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=111201

 

ルカによる福音

〔そのとき、イエスは言われた。〕17・7「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 

イエスの弟子に対するいましめが続きます。

イエスの弟子がふがいない以上に、自分自身の生活はどうなのかと反省させられます。

イエスの弟子として、自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』とわたしは心から思っているでしょうか。

 

聖マルチノ(ツール)司教については女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=110302