マルコによる福音 6:7-12

〔そのとき、イエスは〕7十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、8旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、9ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。10また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。11しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の挨を払い落としなさい。」12十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。13そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 

年間第15主日のみことばの典礼の主題は、預言者、使徒など神から遣わされた者の使命です。

 

 第一朗読は、アモスの預言です。アモスに対する祭司アマツヤの言葉で、北イスラエルには職業預言者がいたことが分かります。アマツヤはアモスにここで商売をするなと言っているのです。しかし、預言をなりわいにしている者ではないとアモスは答えます。神みずからアモスを選び、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と命じたとアモスは言います。しかし、神がそのような使命をアモスに与えたことを知っているのはアモスだけです。アモスの活動は神殿システムの支持がありませんから、孤立し、迫害を受けたことは容易に想像できます。アモスは公式の認知を受けていない、いわば素人預言者ということになります。しかし、彼は神の言葉に忠実であろうといのちがけで預言をします。

神の霊は神殿のシステムとは無関係に働くのです。

 

 第二朗読は、使徒パウロのエフェソの教会への手紙です。本日の朗読箇所全体は一つの賛歌です。その内容はキリストを遣わし、わたしたちを救われた神の栄光をほめたたえるものです。わたしたちはキリストによって、贖われ、罪を赦され、神の国の相続者とされました。こうして「あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。

典礼の司式者は司祭ではありません。真の司式者は頭であるキリストと一つになった共同体です。カトリック教会のカテキズムはこの司式者のことを全キリスト(Christus totus)と呼んでいます。

 イエスは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と言いました。典礼祭儀はまさに全キリストの行為であり、叙階を受けた司祭のワンマンショーではありません。

 

 福音朗読はイエスによる十二使徒の派遣の記事です。

 イエスは大工ヨゼフの息子として、30才頃までその仕事を手伝っていたのですから、安息日ごとに会堂で律法の書の読み聞かせや、ラビの説教を聞いたとしても、律法や預言書をラビの学校で専門的に学んだことはありません。そのイエスの弟子たちも漁師や取税人であり、ユダヤ教のシステムとは無関係です。イエスも弟子たちも神殿や教団とは無縁のいわば素人集団でした。

 イエスはヨハネから洗礼を受けた時、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(1:11)という天から声によって宣教活動を始められました。弟子たちは「わたしについて来なさい」(1:17)というイエスの呼びかけによってイエスに付き従いました。

 職業的な祭司やラビ、会堂長などとは異なり、彼らの生活は不安定で、食べるものにもことかくことがありました。彼らは安息日に麦の穂をつんで食べたことで非難されています(2:23)。もちろんイエスご自身も彼らと苦楽をともにしました。

 やがて、イエスは、十二使徒を二人ひと組にして宣教活動に派遣しますが、使徒たちの派遣にあたって、イエスは杖一本と履き物、下着一枚以外は何も持たずに旅に出るよう命じます。イエスから「汚れた霊に対する権能を授け」(6:7)られたので、彼らはイエスの力によって、病気いやしや悪魔払いを行いました。

 十二使徒が宣教生活に出かけるときの覚悟はなみなみならぬものがあったとはいえ、イエスの受難の時には、イエスのもとから逃げ去り、イエスを裏切ることになります。

 弟子たちの裏切りを見越した上で、イエスは彼らを力づけ宣教へと派遣します。

 十二使徒を待ち受ける状況は、イエスと同じものではないでしょうか。「あなたはわたしの愛する子」という言葉だけをたよりに宣教生活を続けるイエスと同じように、イエスから派遣される使徒たちはイエスの言葉だけをたよりに宣教活動を始めましたが、彼らには弱さもあり、イエスを裏切ることにもなります。

 使徒たちのなかには「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかった」人もいたとマルコは語ります。しかし、再度イエスは弱さを抱え込んだ彼らを宣教に遣わします。

キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(2コリ12:9-10)

とパウロは言います。

 

ひとこと

 十二人の中にはイスカリオテのユダもいました。イスカリオテのユダもイエスから二人ひと組で宣教に遣わされ、それなりの成果を得たのです。使徒たちが「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」のは、彼らの能力によるのではなく、聖霊の力によるのです。 パウロはこのことを自覚していたのだと思います。