マルコによる福音4:26-34

 〔そのとき、〕26 イエスは人々に言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 

成長する神の国

 

 第一朗読はエゼキエルの預言です。主である神がレバノン杉の挿し木をする情景が描かれます。主が移植した若枝は大木となりうっそうと生い茂るとエゼキエルは預言します。このたとえは、イスラエルの民がバビロニア捕囚から解放されダビデ王朝の復興することを暗示しています。

 

 第二朗読は使徒パウロのコリントの教会への手紙です。「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれるものでありたい」とパウロは語ります。信仰者の喜びは主のもとで生きることです。

 

 今日の朗読箇所は通夜や葬儀の時に読まれることがあります。わたしたちがキリストの裁きの座の前に立つ時、そのキリストはペトロに七の七十倍赦しなさいと命じた方であることに希望を置きたいです。

 

 マルコ福音書の冒頭は「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)とあります。「初め」と訳されているギリシャ語は芽生えとも訳すことができます。この言葉はマルコ福音書の表題ではなく、これから語られる物語が、まさに神の子イエス・キリストの福音の芽生えと成長の物語であることを指しています。

 

 冒頭の言葉の後、洗礼者ヨハネとその洗礼者ヨハネからイエスが洗礼を受ける物語が続きます。

 

 イエスが「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。

 

 洗礼者ヨハネがイエスに洗礼を授けているように見えますが、実はイエスの洗礼は天からの神の霊による洗礼であり、父である神がイエスを御自分の愛する子であると認証し、宣言する洗礼でした。

 

 イエスはこの霊の力に支えられて荒れ野で試練を受けられたのち、宣教活動を開始します。イエスの宣教活動の記述では、いやし、不思議なわざと説教が交互に述べられます。

 

 イエスが安息日に手の萎えた人をいやしたその日からファリサイ派の人たちはイエスを殺害する計画を練り始めます(2:13-3:6)。

 

 群衆がイエスの方に押し寄せました。イエスは十二人を選び、使徒とし、派遣し宣教にあたらせました。

 

 他方で、エルサレムから下ってきた律法学者たちは、イエスが「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と断罪しました。身内のものでさえ「あの男は気が変になっている」と聞いてイエスを取り押さえに来ました。

 

 イエスのことを心配してのことでしょうか、イエスの母、兄弟がイエスのいる家の外に立ちイエスを呼ばせました。しかしイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言います。

 

 イエスが聖霊に突き動かされて福音を証しし、説教する姿は、聖霊の力を理解しない人にはまさに「気が変になっている」と思えたのです。

 

 そんな中でイエスは御自分のもとに集まってくる群衆に「神の国」の真相を伝えます。イエスの話は「神の国」の場所やその行き方ではなく、神のエネルギーがどのように働いているかを伝えるものです。

 

 マルコ福音書四章では四つのたとえが続けて語られますが、本日の朗読箇所はその後半の二つのたとです。

 

 最初は人が蒔いた種が成長し「ひとりでに」実をつける話しです。種を蒔いた人は、きっと水をやったり、雑草を取ったりしたはずですが、それは補助的な仕事であり、種の中にある生命力が種から芽を出させ、茎、穂をつけて実を結びます。

 

 それと同じように神の国は押しとどめることのできないほど強い力で伸展し、多くの実を結ぶとイエスは言います。

 

 二番目のたとえは「からし種」のたとえです。からし種は芥子粒ぐらいの大きさですが、蒔くと、芽を出し、大きく育ち空の鳥が巣をかけるほどになるとイエスは言います。詩編104は「主の木々、主の植えられたレバノン杉は豊かに育ち、そこに鳥は巣をかける。こうのとりの住みかは糸杉の梢。」(16-17)と歌います。

イエスの宣教活動で、神の国の福音の種が蒔かれました。蒔かれた時には小さく目に付きませんが、やがて大きく育ち、ユダヤ人ばかりか異邦人を含めて成長します。

 

ひとこと

 種まきの時にとても不思議に思うことがあります。まくときにはごく小さく、どれも同じような形の種なのに、芽を出すとそれぞれの個性を発揮して大きくなり、花を付けたり、実を付けたりします。

 

種は条件によって芽が出たり、出なかったりします。芽が出るのは種の内側に生命力があるときです。種を買うと種の袋の裏側に発芽の時期が掲載されています。買ったままで封を切っていない種もその発芽時期を過ぎてしまうと播いても芽が出ないのです。

 

水をやったり、肥やしをやったりしても、種の中に生命力がなければ芽が出ません。さらに、順調に育っているように見えても、虫に食べられたり、病気になったりして収穫ができないこともあります。

 

 育てている人の努力は二次的でしかなく、植物自体の生命力と、環境の力が一次的で、決定的であることがよく分かります。

 

 福音のもつ生命力を阻害しないように気をつけながら、福音という生命の木が育つのを喜ぶことができますように。