マタイによる福音 28:16-20

 〔そのとき、〕16 十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

 第一朗読の申命記はモーセの説教です。モーセは民にエジプト脱出の救いの出来事を思い起こさせ、「あなたは、今日、上の天においても下の地においても主こそ神であり、ほかに神のいないことをわきまえ、心に留め、今日、わたしが命じる主の掟と戒めを守りなさい」と命じます。イエスはモーセに顕現した主を、「アッバ、父よ」と呼びました。

 

 第二朗読は使徒パウロのローマの教会への手紙です。短い段落の中でパウロはローマの教会の信徒に、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。」と言います。わたしたちが受けた霊により、わたしたちは「アッバ、父よ」と神に向かって呼ぶことができます。「アッバ、父よ」と呼びかけたのはイエス・キリストご自身です。イエス・キリストはわたしたちに取って兄のような存在だとパウロは言っているように思えます。。

 

 福音朗読はマタイ福音書の最後の部分です。イエスは弟子たちに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるように命じ、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束します。十一人はイエスの復活の最初の証人となった女性たちから「ガリラヤに行きなさい。そこでわたしに会うことになる」というイエスの伝言を聞いて、ガリラヤに出かけのですが、「疑う者もいた」とマタイは伝えます。「疑う」という動詞はギリシャ語のディスタゾーです。この動詞は新約聖書の中でマタイ福音書に二度しか使われていません。この箇所ともう一箇所は、マタイ福音書14章です。湖上を歩くイエスの姿を見たペトロがイエスに願って水の上を歩いた時、途中で強い風に気づいて「恐れ」、水に沈みかけるペトロがイエスに「主よ、助けて下さい」と叫ぶペトロに、イエスが手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(14:31)と言われる場面です。ペトロはイエスのもとへ行きたいと思いつつも一方では風を恐れました。ディスタゾーの本義は「疑う」ことではなく、心が二方向に裂かれた状態になることです。いわば二心(ふたごころ)を持つことなのです。

 

 イエスの復活の知らせを受けわざわざガリラヤまで行った弟子たちの中でさえ二心を持つ人がいたのです。イエスは疑いを持つ弟子に近寄ります。近寄るという動詞はギリシャ語のプロスエルホマイです。この言葉はマタイに特徴的に現れる言葉です。主語がイエスになっているのは二例だけのようで、他の例はご変容の場面です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえたのに驚き恐れた弟子たちがひれ伏したとき、イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」(17:7)と声をかけます。

 

 二心を持ち、心が揺れる弟子に、イエスが近づき宣教へと派遣する時、その宣教生活の成功や挫折の中で、イエスがいつも共にいて下さることを実感したのではないかと思います。

 

ひとこと

 新約聖書には三位一体の神についての言及がどこにもないのは事実ですが、イエスの言葉と行いを通して、イエスが父と呼ぶ神とイエスご自身、イエスの洗礼の時に天から降った霊が一つであることが分かります。そして復活後イエスは弟子たちに「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」よと命じます。この「名」は単数です。

 

 三位一体が教義宣言される前に、弟子たちは宣教の最初から父と子と聖霊の名によって洗礼を授けました。

ミサのはじめに、司祭が、「父と子と聖霊のみ名によって。」というと、会衆は「アーメン。」と唱和します。この言葉は「わたしたちは父と子と聖霊のみ名によって、洗礼を受けたイエス・キリストの体です」という司祭に対して、会衆が「まことに、そのとおりです」と信仰告白をしているように思います。

 

 つぎに、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに。」というと、会衆は「また、あなたとともに」と返します。

 

 この言葉は、パウロのコリントの手紙2の結びの言葉です。その直前でパウロは、「兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」と言っています。三位一体の平和の神があなたがたと共にいてくださいますという司祭に対して、会衆が「またあなたと共に」と答えます。

 

 三位一体の神と共にいることを集められた人びとが確認した上で、感謝の祭儀は始まります。

 

 三位一体の愛と平和の神が、戦争をする人、戦争の被害を受ける人すべての人に臨在しますように。