ルカによる福音

〔そのとき、エルサレムに戻った〕24・35二人の弟子は、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

 44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。」

 

あなたがたはこれらのことの証人となる。

 

あなたがたはこれらのことの証人となる。

 

 第一朗読は使徒言行録3章13節から19節です。聖霊降臨後、ペトロはユダヤ人たちに説教をします。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」という言葉に心を打たれた人たちは、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、ペトロたちの仲間になりました。

今日の朗読箇所は、祈るために神殿に登ったペトロが、生まれつき足の不自由な男をイエス・キリストの名によっていやした後に、集まってきた民衆に教えを説く場面です。ペトロは、「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(15節)と言い、「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」と勧めます。

この説教は聖霊降臨後二番目の説教です。ペトロやヨハネとその後継者たちは、「イエスの死と復活の証人」として生きるようになりました。

 

 第二朗読はヨハネの手紙です。ヨハネは「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。」と伝えます。神の掟とは何でしょうか。神の掟とは、神がイエスを愛し、イエスが弟子たちを愛したように、弟子たちが互いに愛し合うことです。

 

 福音はエマオに向かった二人の弟子たちにイエスがご自分の姿を現した後、弟子たちが集まっているところにイエスが現れる場面です。

 

 エマオに向かった弟子たちにイエスが現れる物語、その弟子たちがエルサレムに戻って他の弟子たちに起こったことを報告している間にイエスが現れた物語は共通の枠組みを持っています。

 

 1.弟子は最初イエスに出会ってもそれがイエスだと分からない(16節と37節)

 2.イエスが聖書に基づく説明をする(25ー27節と44節ー47節)

 3.イエスは弟子たちの前から消える(31節と51節)

 

 マグダラのマリアがイエスを目の当たりにしても、それがイエスだとは気づかず、名指しで呼ばれて始めてイエスだと分かったように、弟子たちもイエスが目の前に現れても、イエスが声がけし、イエスから聖書に基づいて教えられないかぎり、目の前の人がイエスだとは分からないのです。そしてイエスだと分かった途端に、イエスの姿は見えなくなります。弟子たちはイエスが見えなくなっても、共におられることを確信します。

 

 イエスは聖書に基づいてご自分について弟子たちに教えられただけでなく、彼らと食事を共にし、ご自分の出来事の証人として生きるよう使命を与えられました。

 

 エマオの物語と弟子たちへの顕現の物語は、わたしたちが行っているミサ、感謝の祭儀を示しているように思います。

 

 復活されたイエスは様々な状況で、弟子たちと共に食事をします。共に食事をすることによって、弟子たちはイエスが共にいてくださることを頭で理解するのではなく、実感したのだと思います。

 

ひとこと

 わたしたちがミサを行うたびに、イエスは私たちの間に来られ、ご自分について聖書が語ることを説き明かし、パンとぶどう酒をイエスの体と血としてわたしたちにお与えになります。

 ミサでわたしたちがご聖体を頂くのは、わたしたち自身がイエスの乗り物となるためです。わたしたちは、イエスを自分の体の中にお迎えし、わたしの家庭、職場、社会にお連れします。

「わたしがあなたがたを愛しているように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とわたしの中におられるイエスはささやき続けています。