マタイによる福音5:13-16

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 

 本日の言葉の典礼のテーマは、「主の光」だと思います。

 

 イスラム教徒はラマダン月の日の出から日没にかけて、一切の飲食を断つことにより、空腹や自己犠牲を経験し、飢えた人や平等への共感を育むことを大切にしています。また親族や友人らと共に苦しい体験を分かち合うことで、互いの連帯感が強まり、多くの寄付や施しが行われます。イスラム教の断食の意義は、イザヤの預言に通じるところがあります。

 

 主である神は、「わたしの選ぶ断食とは、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。」と言います。断食は同胞の困窮を実感するための手段です。

 

 さらに、主である神は、「飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。」と告げます。この光は主である神の光ではないでしょうか。

 

 ロシアのウクライナ侵略により、寒さと飢えに苦しむ人々に、途切れることのない支援が届くよう祈ると共に、私たちもできる努力を続けて参りましょう。

 

 「あなたがたは地の塩、世の光である」というイエスの言葉はご存じのことだと思います。

 西洋でも東洋でも、塩は大変貴重なものです。ドイツには塩街道があり、日本にも塩の道があります。塩は食品の味付けや保存に欠かすことのできないものです。

 また、灯台も夜の海上交通には欠かせないものです。

 塩も、光も他のものに換えることができない大切な役割を持っています。

 イエスは弟子たちに「あなたがたは地の塩、世の光であれ」と言ったわけではありません。すでに弟子たちはイエスに呼ばれたことにより「地の塩、世の光」なのです。だから、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」と命じるのです。

 「光」や「塩」は弟子たちがイエスから託されたものではないでしょうか。弟子たちがイエスに託された使命に生きるとき、人々は「あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめる」ことになります。

 イエスの信じる人がイエスとの関わりに生きようとするまさにそのとき、光が世に輝き始めるのです。

 弟子の行いはさまざまであったとしても、その行いを通して輝く光は、イエス・キリストの光です。イエス・キリストの光が輝くためには、その光を分け与えられている人たちが果てしなく透明になることではないでしょうか。伝える人が何人いても、それらの人を通して輝く光は唯一の光です。

 

 クロッペンブルグという神学者は第二ヴァチカン公会議時の神学顧問の一人で公会議の神学的方向付けに寄与しました。彼は公会議文書の『教会憲章』の分析で、キリストだけが世の光、太陽のようであると言っています。光の源泉である太陽とは異なり、月はそれ自体の光を持たず、単に太陽の光を反射しているだけです。月である教会は満ちたり、欠けたりしながらキリストの光を反射しています。月は満月のこともあれば、新月の時もあります。

 

 そして教会とは建物や制度のことではなく、イエスによって「あなたがた」と親しく呼びかけられ、集められた共同体のことを指します。従ってイエスの共同体である私たち自身がイエスを反射する程度に従って、世界を照らす光となるのです。

 

 二千年前、山の上でこだました「あなたがたは」というイエスの呼びかけは、今日、日本で生きている私たちにも宛てられています。地の塩、世の光である私たちは、どのような使命をイエス様から託されているのでしょうか。

 

 ロシアのウクライナ侵略がいつ、どのような仕方で結末を迎えるのかよく分かりませんが、わたしたちが地の塩、世の光としての使命をこの世の中で果たすことができるよう祈りましょう。