マタイによる福音 5:1-12a

 1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。

 3 「心の貧しい人々は、幸いである、

     天の国はその人たちのものである。

 4 悲しむ人々は、幸いである、

     その人たちは慰められる。

 5 柔和な人々は、幸いである、

     その人たちは地を受け継ぐ。

 6 義に飢え渇く人々は、幸いである、

     その人たちは満たされる。

 7 憐れみ深い人々は、幸いである、

     その人たちは憐れみを受ける。

 8 心の清い人々は、幸いである、

     その人たちは神を見る。

 9 平和を実現する人々は、幸いである、

     その人たちは神の子と呼ばれる。

 10 義のために迫害される人々は、幸いである、

     天の国はその人たちのものである。

 11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

 

年間第4主日のみことばのテーマは「まことの幸い」です。

 

 第一朗読のゼファニヤの預言では、「苦しめられ、卑しめられた民」が主である神によって守られ、養われると告げられます。

まことの幸いとは富、健康、地位、長寿といったものではなく、主である神によって守られ、養われることだと教えられます。

 

第二朗読では、パウロがコリントの教会の人々に勧告をしています。

コリントの教会の人々は「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれ」人々です。

従って、誰も神の前で誇ることができません。もし誇るとすれば、世から見れば無に等しい自分を選んで、キリスト・イエスに結んでくださった主を誇るべきだとパウロは言います。

 

 イエスがガリラヤ中をまわって、福音を宣べ伝え、人々の病気や患いを癒やすと、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれたものたちが大勢イエスに付き従うようになりました。

今週の福音は、これらの群衆を見て山に登り、説教をする部分です。この説教は「山上の説教」と言われ、その最初の部分は、「真福八端」とも呼ばれています。

 

 山という状況設定は、モーセを通してエジプトから民を導き上った神が民と契約を結び、掟を与えたシナイ山を思い起こさせます。イエスは新しいモーセとして、新しい教えと戒めをご自分に従って来た人々に与えます。

 

 教皇フランシスコは2014年に発行された使徒的勧告『喜びなさい、大いに喜びなさい』の中で山上の説教について次のように語ります。

 

 山上の説教は、キリスト教徒の身分証明書のようなものです。ですから、もし誰かが「よいキリスト教徒になるためには、何をしなければなりませんか」と尋ねたら、答えは明確です-私たちは、自分たちのそれぞれの道で、イエスが山上の説教で私たちにおっしゃったことをせねばならない。八つの幸福の教えの中に、私たちは主の姿を見つけます。それを日々の生活に反映していくように、私たちは求められているのです。

 幸せ」あるいは「祝福された」という言葉は、こうして、「聖なる」と同意語となります。この言葉は「神とその言葉を信じる者は、自分を捧げることによって、真の幸福を得る」ということを表わしています。

 八つの幸福の教えは、言い古されたものでも、他人を損なうものでもない。全く、その反対です。聖霊が、私たちをその力で満たし、私たちを弱さ、利己心、自己満足、そして自尊心から自由にしてくださるなら、私たちは、その教えだけを実行することができるのです。

 イエスの言葉を、もう一度、聞きしましょう-主が受けるにふさわしい愛と敬意の全てをもって。イエスの言葉が私たちの心を乱し、私たちに挑戦し、私たちに生き方を変えるように要求するままにしましょう。そうしなければ、聖性は, ただの空虚な言葉のままになるでしょう。

 

 山上の説教の最初の教えは、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」。です。

 

教皇フランシスコは、次のように続けます。

 

 福音書は私たちの心の深みをのぞき込んで、私たちが、人生で、どこに安心を見出すか見るよう誘いかけてきます。普通、豊かな人々は彼らの富に安心し、もしその富が脅かされたら地上の生活のすべての意味が失われると考えます。イエスはこれを、私たちに「愚かな金持ち」のたとえをもって語られています。彼は、富があるので安心しきっている愚かな男のことを語られました。なぜなら、まさにその夜、その男の命は取り上げられたからです。

 富は何も保障してくれません。実に、私たちは、いったん自分たちが豊かだと思うと、それですっかり自己満足に浸り、神の言葉や、兄弟姉妹への愛や、人生で最も大切なことの喜びの場を手放します。そうして、私たちは全ての中で最も素晴らしい宝を得る機会を失ってしまいます。山上の説教で、イエスが「心の貧しい人々、貧しい心を持った人々は幸い」と語られた理由です。そこに、主がとこしえの新しさをもってお入りになることができるからです。

 

  イエスの山上の説教は幸せについて私たちの社会が教え込もうとしていることとは違うことを教えます。この教えが真実であるかどうかは、私たちそれぞれの生活の中で確かめる必要があります。

 

 ただ神にしか希望をつなぐことのできない人びとに神の祝福と慰めが与えられるよう心をひとつにして祈りましょう。