ルカによる福音 2:16-21

〔そのとき、羊飼いたちは、〕急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、彼らは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 

第一朗読の民数記の箇所は、アロンの祝福の祈りと言われる部分です。

 

 「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

 主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。

 主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。」

 

聖大学のチャプレン菊池順先生は、「主がみ顔を向けて」という祈りは驚くべきことと言います。旧約聖書では罪深い人間は神の顔を見ると滅ぼされてしまうと考えられていたからです。かつて神を仰ぎ見たイザヤは、「災いだ。わたしは滅ぼされる。」(イザ6:4)と叫びました。その主がみ顔を向けて、私たちを照らし、恵みを与え、平安を賜ると祈ります。この祝福を実現したのはイエス・キリストご自身でした。

 

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハ14:27)

 

平和は戦争のないことだと考えがちです。安全保障というのは武装して戦争に備えることだと政治家は考えますが、聖書では平和(シャーローム)は戦争のないことではなく、主である神が祝福し、守り、照らし、恵みを与えることなのです。コロナウイルス感染症による将来の不安に心が潰されそうになるとき、この愛に満ちた祈りに励まされて、神のみ顔を仰ぎ見て今日を生きることができますように。

 

第二朗読では、イエス・キリストにより、わたしたちは神の子として「アッバ、父よ」と親しく呼びかけることができるようになったとパウロはいいます。

 

福音は救い主の誕生を告げられた羊飼いたちが、飼い葉桶に寝かせられた救い主をたずねあてた場面です。

 

神は人間を救うためにどんなことでもおできになったはずなのに、救い主を乳飲み子として世に遣わしたことに思いを寄せましょう。乳飲み子は世話をしなければすぐに死んでしまいます。乳飲み子は母親から抱かれ、おっぱいを飲ませてもらい、お尻を拭ってもらう必要があるのです。乳飲み子が差し出す両手は、無条件の信頼に満ちています。この乳飲み子のかがやきは周囲の人たちを明るく照らします。

 

今日は神の母マリアをお祝いすると同時に、「世界平和の日」でもあります。乳飲み子であるイエスが、私たちを祝福し、守り、照らし、恵みを与え、平和を下さいます。その神の平和を告げる者としての使命を果たすことができますように。