ルカによる福音 10:17-24

 

〔そのとき、〕七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

 

ルカ福音書10章1-12節でイエスは七十二人を派遣しましたが、彼らが無事に帰還し成果を報告している場面が今日の福音です。彼らの業績は、彼らの能力によるものではなくイエスの力によるものです。イエスが言う「幼子のような者」とは純真な者ではなく、「知恵ある者や賢い者」ではない者のことです。実際、彼らは律法学者やファリサイ人に比べればほとんどが教養も、宗教的修養もない人々だったと思われます。

 

わたしは叙階以来、在日韓国人信者会と共に歩んできました。会長のKさんは義務教育もまともに受けておらず、生活保護を受けている方でした。大声で話すKさんと最初に会ったとき正直に言って当惑しました。しかし、何年か一緒に活動を続けているうちに、Kさんの「かしこさ」に感嘆するようになりました。

 

Kさんは、社会が「知恵ある者や賢い者」と格付けする基準ではなく、神が祝福し、選んだ方であることが分かりました。

 

Kさんの葬儀ミサの時、大勢の方が参列してくださいました。Kさんの思い出はわたしの宝物です。