ルカによる福音 8:4-15

そのとき、4 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。5 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。6 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。7 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。8 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

9 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、

『彼らが見ても見えず、

聞いても理解できない』

ようになるためである。

11 このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。12 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。13 石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。14 そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。15 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

 

週日のミサの朗読は準継続朗読です。祝日や祭日で特別の朗読箇所が選ばれる場合を除いて、ある聖書が連続して朗読されます。ちなみに、2020年の聖書朗読配分については、中央協議会のHPにPDFで掲載されています。

 

さて、パウロの「コリントの信徒への第一の手紙」は2020年8月27日から9月19日まで、準継続朗読になっていました。その朗読の最後にあたり、このコリントの信徒への手紙の重要性についてご紹介します。

 

イエスの最期の晩餐の記述は共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)にありますが、それよりも以前の記述がコリントの信徒への第一の手紙の最後の晩餐の記述です。わたしが翻訳を手がけているアメリカの神学者のケナン・オズボーンは、『共同体・エウカリスチア・霊性』という本の中で、コリントの教会への第一の手紙について次のように述べます。

 

コリントの信徒への手紙の冒頭からパウロはコリントの共同体のイエスの特質について心配をしています。1章10節から4章21節まで、パウロは共同体の中の対立グループのことを述べています。そのような競合グループの存在は、パウロの見解では、キリストを中心にしていません。5章1節から6章20節まで、パウロは特に二つの分裂を生じさせる問題に焦点を当てます。それはある共同体のメンバーの性的スキャンダルと共同体の別なメンバーによってローマ帝国の法廷に提訴された訴訟です。パウロがコリントの教会への第一の手紙を書く少し前、彼はある明確な問題について助けを求めるコリントの共同体からの手紙を受け取りました。7章1節から14章40節まででパウロはこれらの特定の問題に答えています。エウカリスチア(感謝の祭儀)についての二つの章があるのはこの部分です。

10章でパウロは共同体自体を強調することから始めます。パウロが実際のエウカリスチアの祭儀に向かう前に共同体について語っていることに注意してください。パウロにとって、共同体の霊的健全さがどのようなエウカリスチアの祭儀にも必須の基礎です。パウロの見解ではコリントの教会はそれ自体としてキリストを中心にまとまった共同体でもなければ、主の到来を反映する共同体でもありません。共同体が主を反映していないのであれば、どうして真のエウカリスチアの祭儀がありえるでしょうか。よりキリストを中心とする共同体の議論にもとづいて、パウロは11章で、コリントにおけるエウカリスチアの祭儀に向かいます。パウロが共同体とエウカリスチアの間に本質的な相互関係をつけていることは、手紙自体の構成で明らかです。

 

オズボーンは最後の晩餐についてのこの最も古い記述から始め、第二バチカン公会議後の今のカトリック教会のエウカリスチアの歴史を概観しながら、同じテーマを繰り返しています。

 

お互いを愛する(尊重する、大切にする)ことのない共同体にはエウカリスチアは存在しない。

 

 パウロの時代の教会から現代に至るまで理想的な教会共同体は実現しませんでした。今も、あらゆる地域の教会(共同体)は固有の問題を抱え苦しんでいます。それらに対する特効薬はないとしても、オズボーンは次の対処法を提言します。

  • たとえ立場に違いがあったとしても、お互いを尊重する。
  • 共同体内の分裂が現れはじめたら、何度も繰り返しイエスの福音を手引きとする。
  • 目標への二者択一を相手に迫るよりも調和する。
  • 教会は罪人の教会であって、聖人だけの教会ではない。
  • 罪人を愛しなさい、そして同時にあなたもまた罪人だと認めなさい。

 ここで「愛する」とは情愛のことではなく、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15章12節)というイエスの掟に言われる「愛する」ということです。ケセン語訳福音書で話題になった山浦玄嗣先生によればそれは、「でぇーじにする」、つまり大切にする、尊重するということです。

 

 パウロの時代以来エウカリスチアの方法はさまざまに変化してきましたが、共同体の課題はいつも同じものだったように思います。イエスは今日もわたしたちに「聞く耳のある者は聞きなさい」と諭されます。

 

 イエスの赦しといやしに満たされた共同体を目指して共に歩みましょう。