ルカによる福音 7:31-35
〔そのとき、イエスは言われた。〕31 「今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。32 広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった。』
33 洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、34 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。35 しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」
イエスは大勢の人と食事をしました。弟子たちとの日々の食事、さらに、律法学者やファリサイ人はもとより、「徴税人や罪人」と呼ばれる人たちとも食事を共にしました。ユダヤ教にはコーシェルと言われる食事の規定があり、食べてよいものといけないもの、調理の仕方など細かく規定されています。何を食べるかだけが重要なのではなく、誰と食べるかも重要なことでした。「徴税人や罪人」と食事を共にすることは、「徴税人や罪人」と同じ穢れを受けることになると考えられていました。そのことが今日のイエスの言葉の背景にあります。
最後の晩餐を聖体制定と結び合わせるのではなく、最後の晩餐は、イエスが弟子たち、「徴税人や罪人」、そして律法学者やファリサイ人などと取った最後の食事だったことを忘れないようにしたいと思います。感謝して食事を共に頂くとき、そこにイエスご自身も臨席しておられると信仰の中で受けとめたいです。
今日はローマの司教コルネリウス(?-253. 6)と、カルタゴの司教キプリアヌス(?-258. 9.1)の記念日です。
東方正帝のガレリウスは311年に寛容令を出し、西方正帝のコンスタンチヌスは313年にキリスト教を公認するミラノ勅令を公布しました。それまで、キリストの最初の弟子たちから始まってそれまでは程度の差こそあれ、キリスト教徒に対する激しい迫害が続きました。キリスト教を信じることは命がけの行為であり、教皇や司教たちも迫害で殉教をしました。
ローマ皇帝デキウスの時代(在位 249~251)の迫害は苛酷でした。この迫害は251年デキウスの死によって中断しました。そのとき迫害の時に棄教した司教、司祭、信者が、教会に復帰したいと望む場合、その人を教会に受け入れるべきか否かを巡って激しい対立がありました。結果的にはこの問題は、251年のローマ教会会議で審議されることになりました。この会議では実際に偶像に香を焚いた者は、臨終の時まで教会に受け入れられないが、香を焚いたという証明書を入手しただけの者は公的悔悛儀礼を行うことによって教会に受け入れられるという決定をしました。この会議に出席していたローマ司教のコルネリウスは、その決定が寛容すぎるとするノヴァチアヌスの反対を受け、その結果、ローマの教会は分裂しました。この年彼は迫害によって追放され、追放先で病死します。
一方ローマ教会会議に出席していたカルタゴの司教キプリアヌスはコルネリウスを支持しましたが、カルタゴでは、棄教者に対するキプリアヌスの態度を厳しすぎると考えた幾人かの人々が彼に反抗して教会分裂を引き起こしました。
後に北アフリカでは棄教した人の行った洗礼、叙階は無効であると主張するドナトゥスとその一派が現れ、アウグスティヌスはドナトゥスとの論争の中で、カトリック教会の恩恵論の基礎を築くことになります。
教会の歴史は厳格主義と寛容主義の間を揺れる振り子のようだといった人がいます。洗礼者ヨハネの厳しさも、イエスの憐れみ深さも神への信仰の表れです。外見的な厳格か寛容が問題なのではなく、回心しない口実を探す頑なな心の持ち主への警告が今日のイエスの言葉であると受けとめることができます。
何よりも大切なことは「わたしがあなた方を愛したように、あなたがたは互いに愛し合いなさい」というイエスの掟に尽きるとわたしには思えます。
人は誰でも自分たちのしていることを正当化するため、自分の理解を超えた行動をする人に出会うと、よく考えもせず、断罪しがちです。それは、ファリサイ人や律法学者だけのことでなく、私たち自身のことでもあります。