カトリック一宮教会聖堂正面の磔刑像

ヨハネによる福音 3:13-17

 

そのとき、イエスはニコデモに言われた。13「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 

ヨハネ福音書の特徴の一つは語り手の地の言葉が直接現れることです。イエスとニコデモの会話の中に、いきなり語り手の独白が現れます。特に3章16-17節の言葉は注目に値します。

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 

ヨハネ福音書の終わりの方では、

 

このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 

と語り手は記しています。

 

「天網恢恢」(てんもうかいかい)という四字熟語をご存じでしょうか。辞書によれば、「天網恢恢疎にして漏らさず」ということで、「天が張りめぐらした網は広く、目が粗いようだが、悪人・悪事は決して取り逃がさないということ」と解説されています。

 

ヨハネ福音書の語り手が言いたいことはこれとは真逆のことです。「神の憐れみと救いの網は広く、目が粗いようだが、誰一人そこから漏れ出ることはない」と語ります。

 

今日は十字架称賛の記念日です。十字架はキリスト教のシンボルですが、それはローマ帝国が植民地支配をするにあたって、植民地の住人に対して抵抗する者たちを見せしめとして極刑にする残虐な刑罰でした。どうしてその十字架が称賛されるのでしょうか。

 

十字架に象徴される受難のことをパッションと言います。パッションは、情熱という意味でも使われますが、本来は受苦、受難、被ることを指しています。

 

イエスだけではなく、私たちも理不尽なことに遭遇し苦しめられることがあります。中世ヨーロッパではペストの再三にわたる流行で壊滅的な被害を受けました。

 

そのような事態に見舞われて、「神も仏もあるものか」と不信を募らせる人もいたでしょうが、病人をいたわり、死者を埋葬しようとして自らもまたペストに感染して死んだ人もいあったことをアルベール・カミュの『ペスト』は描いています。

 

先の見えないwith Coronaの時代に、「神も仏もあるものか」と自暴自棄になるのか、十字架を見上げ、苦しみと痛みを共にすることによって人間を救おうとしたイエスに希望を置き生きるのかが問われています。

 

精神科医の神谷美恵子さんの『生きがいについて』は、ハンセン病患者たちの苦しみについて問いかけています。その中で彼女は聖フランシスコの『小さき花』を引用しています。

 

苦しみと悲しみの十字架こそわれわれの誇りうるものである。なぜならば「これこそわれらのもの」であるから。