ルカによる福音 18:1-8
 1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

今日のミサのテーマは「あきらめずに祈り続けること」にあります。

 第一朗読の出エジプト記では、約束の地を目指して荒れ野を旅するイスラエルの民を襲うアマレク人との戦いの様子が朗読されました。この戦闘の勝敗はアマレク陣営に対するモーセの作戦やイスラエルの民の勇敢さによるのではなく、神の杖がかなめとなっています。モーセが神の杖を持った手を高く挙げていると、イスラエルの民は優勢になり、手が下がると劣勢になります。モーセは朝から日の沈む時まで杖を持った手を挙げ続けたことになります。何も持たずに手を挙げ続けるだけでも大変な重労働です。とてもモーセだけではその姿勢を保つことができず、アロンとフルがモーセの両側に立ってモーセの手を支えます。
  神のわざをもたらすのは神の杖ですが、それを持つのはモーセの役割です。しかもモーセ一人では持ちきれないのでアロンとフルが支えました。神のわざが現れるよう、粘り強くモーセが祈り続けることができたのは、アロンとフルの協力のおかげです。
 わたしたちが祈る時も、孤立無援の中で祈るのではなく、誰かの支えがあるのだと教えられます。
 
 福音ではイエスが「やもめと裁判官」のたとえを語ります。
 このたとえには二人の人物が登場します。一人は「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」です。裁判官は、町で色々な訴訟やもめ事に裁定を下す人物です。人間としての誠実さに欠けていると思われるこの裁判官はやもめの訴えを最初は無視していましたが、やもめがしつこく訴えるので裁きを行うことを決意します。
 このやもめのしつこさはかなりのものです。ひっきりなしに来るだけではありません。「さんざんな目に遭わす」という動詞は「目の下を狙い撃つ」というボクシング用語だと解説書には書かれています。自分自身の生死に直結したやもめの訴えには切迫感があります。
 神を畏れず、人を人とも思わない裁判官でさえ、やもめのしつこさに負けて裁きを行うのであれば、まして神はご自分に希望をかける人たちが「昼も夜も叫び求めいる」のにそのままにしておかれることはないとイエスは力づけます。
 わたしたちにとって、イエスに付き従うかどうかは、死活問題のはずです。もしその自覚が少しでもあるのなら、しつこく、神に叫び求めること、あきらめず祈り続けることこと大切だとイエスご自身が教えてくださっています。
 「祈って何になるのか」、「祈っても神はきいて下さらない」とすぐにわたしたちは諦めてしまいがちです。そんなときこそ信仰の仲間たちと共に「しつこく」祈ることが大切です。

 教会で毎週日曜日に「ともに集って祈る」つまり「ミサをともに生きる」ことは、まことに祈りの本質を体現していると言えるのです。
 私たちは自分の苦しみや悩みには敏感ですが、目の前の人の苦しみや悲しみには鈍感です。教会で行っている礼拝が真実となるためには、互いの苦しみや悲しみに敏感になることが先決ではないでしょうか。
 世界が怒りと分裂の渦に巻き込まれ、先が見通せないこの時期にこそ、共に心を挙げて神のいつくしみが世界に行き渡るよう祈りましょう。