ルカ福音書 17:5-10
 5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
 7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 今日のことばの典礼で朗読された三つの聖書のみことばは、信仰とは何かについて教えられているように思います。

第一朗読
 ハバククは紀元前7世紀の終わり頃に南ユダ王国で活動した預言者です。ハバククは自分たちを取り巻く苦しい状況を神様に向かって「いつまでですか、なぜですか」と訴えかけます。神さまはそれに対して、「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。…神に従う人は信仰によって生きる。」とこたえます。信仰とはこの神さまの言葉に信頼し忍耐強く待つことだと教えられます

第二朗読
 テモテへの手紙は、牢屋の中で今にも剣で殺される前のパウロが弟子のテモテに宛てた遺言です。パウロはこの手紙の中で「わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみをしのんでください」とテモテに言いおきます。パウロにとって信仰とは、どんなことがあっても神さまが助けて下さると信頼し、神さまの力に支えられ、イエス様こそ救い主だとあかしし、苦しみを耐える原動力です。

福音朗読
 福音では、使徒たちがイエスに「わたしどもの信仰を増してください」とお願いします。その願いに「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」といいます。
 皆さんはからし種を見たことがありますか。からし種は、もちろんからしという植物の種のことです。この種を以前頂いたことがありました。非常に小さな種で、息を吹きかければ、あっという間に飛んでいってしまうほど軽いものです。「からし種ほどの信仰」とは、人の目から見れば、あるかないか分からないような信仰のことでしょう。
  
 私たちは、思いがけないことが起きるとき、神さまは助けてくれなかった、もうだめだとあきらめてしまうことがあります。でも、そんなときにでも、神さまへの信頼を自分で捨てなければ、奇跡が起きるとイエス様はおっしゃっています。

 自分自身のことをふりかっても、私の信仰はあいまいで、思いがけないことが起こるとすぐに落ち込むことがあります。

 でもいろんな苦しみや信仰の試練に心が折れてしまって、神様や、イエス様から見放されたと落ち込んでいるときに、イエス様は「あなたのそばにわたしはいる」と言ってくださいます。

 今日のみことばを黙想しながらアンパンマンの生みの親、やなせたかし先生のことを思い出しました。

 やなせたかし先生は、今から6年前、2013年10月13日に神さまのもとに逝かれました。先生はアンパンマンを通して多くのことを伝えてくださいました。今日わたしが皆さんにご紹介したいやなせ先生のことばは、

 絶望の隣は希望です! 悲しみに負けそうなときは、ゲンコツで涙をふこう。

 人間はこんなふうに、逆境の中でも夢を見る生き物なのだ。人は誰も幸せな人生を送りたいと願い、こうありたい、明日はそうなれるかもしれないと夢を追いかけていく。だからこそ、がんばれるのだ。もしかしたら、実現しないかもしれない。夢で終わってしまうかもしれない。それでも夢を追いかけていく。いつの間にかそれが生きがいになっていく。

 からし種ほどの信仰とは、めげそうなときにも神さまを信じて、希望をもって生きることだと教えられます。その信仰を与えてくださいと祈りましょう。