主日の説教案以外にブログ投稿することは久々ですが、選挙を控えどうしても気になる思想家のことばをご紹介します。
「顔」が変わった?と書き付けたのは、鷲田清一先生です。彼は2008年(今から10年前!)の民主党の事情について次のように描いています。
2006年4月、「民主党の顔」が変わった。小沢一郎氏の登場である。そしてこの間、安倍晋三氏、福田康夫氏、麻生太郎氏と、「自民党の顔」もめまぐるしく変わった。どうでしょうか、いくつか人名を変えるとそのまま今の政治状況そのままではないでしょうか。「こんな日本にだれがした」(鷲田・内田『大人のいない国』と溜息をつく前に、いまわたしたちは何ができるのか、何をしなければならないのかを、よく見極める必要があります。
「顔」が変われば組織の思想や体質まで変わると、ひとは思いがちである。イメージの変化に、つい踊らされるのだ。が、ほんとうは逆である。だれもすぐには気づかない小さな変化の積み重ね、その中でおもむろに組織の「顔」が変わってくるというべきだ。
顔といえば、ポスターの顔、テレビに映し出される顔を思い浮かべる。が、そもそも顔は、イメージ、つまり像ではない。だれかのことをおもうとき像のようなものが立ち上がるが、目鼻立ちすら明確ではない。それはむしろそのひとの存在の感触とでもいうべきものだ。
顔はまた、当のじぶんには見えないものである。組織の顔も組織のなかにいるひとには見えない。
顔はさらに、顔面のことではない。ときには相手の声にも、指先にも背中にも、ひとは顔を感じる。「民主党の顔」と言うとき、わたしたちはまだ像(イメージ)としての顔しか問題にしていない。
「小泉劇場」という言葉もあったように、またニュース番組がかぎりなくエンタテイメント番組に近づいているように、わたしたちの多くがいま「政治」と呼んでいるものは、イメージのゲームでしかない。どんな駆け引き、どんな応酬をしているのかにひとびとは注目するが、それは論理の応酬ではなく、イメージの駆け引きであり、パフォーマンスの応酬でしかない。ひとびとは議論の内容ではなく、相手を攻めるその手際を見ている。
ここで、わたしが現にしはじめているように、政治の現況を見下すことはたやすい。けれども、ドイツの文豪の言葉ではないが、「政治を軽蔑するものは、軽蔑にあたいする政治しかもつことができない」。だからこそ、わたしたちはよくよく政治とは何かを問いたださなければならないのだ。
○○ミクスの効果といいますが、原発の燃料廃棄物の処理をはじめとして、今の「もうけ」を独占しようとしている勢力が、侵してはならない子どもたちや孫たちの取り分まで、奪い取り、つけはこれからのひとに押しつけているように感じるのはわたしの思い込みでしょうか。
与党政府の一貫した政策を支持するのか、異議申し立てをするのかを表明する選挙だと思います。