神言会の江川神父が6月5日夜聖霊ホスピスで召天されました。
霊名:アウグスティヌス
江川 憲
生年月日   :1950年2月8日
叙階年月日 :1977年10月29日
召天年月日 :2012年6月5日 享年62才
通    夜  :2013年6月7日 午後7時(南山教会聖堂)
葬儀告別式 :2012年6月8日 午前9時30分(南山教会聖堂)   
 
 江川神父様とお会いしたのは彼が神言会の神学生として南山大学で学んで織られたときです。当時一般学生だったわたしは確か形而上学の授業などでご一緒したような気がします。その後わたしが司祭になってからは、良く南山短大のテニスコートで、一緒にテニスをしました。
 名古屋教区のホーム・ページは主日の福音の説教案を教区内の司祭にお願いしていますが、江川神父様の担当は復活の主日でした。ところが手違いでアップができず、電話で直接おしかり頂いたのが最後となりました。今思えば余命幾ばくもない中で、御自分の信仰告白をなさっておられたのでした。
 謹んで永遠の安息をお祈りすると共に、江川神父様の復活の主日の説教をここに掲載させて頂きます。
 
「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(ヨハネ20・1?9)
 今日、4月8日はカトリック教会の中では、最大の祝い日である「復活の主日」ですが、日本の社会一般では、クリスマスほどその祝いの意味がまだ浸透していないようです。キリスト教の福音(よい知らせ)は、救い主の誕生のみではなく、その生涯の教えと癒しの活動を経て、そこから必然的に帰結する、受難・死(十字架上の処刑死)という、人間の生き死に全体に関わるものです。もちろん、これでだけで終わらず、その後のことが、キリスト教の福音(喜ばしき知らせ)の特徴であり、ユニークさでもあります。
 
 それを祝うのが「復活の主日」であり、キリスト教にとってクリスマスよりももっと大きな祝日であるわけです。特に、今年の場合は、昨年の東北大震災、福島の原子力発電のメルト・ダウンによる放射能汚染という、天災および人災が降りかかってきてから、もう一年と一ヶ月になろうとしています。これらのことを通して、わたしたちは、日本人のみならず、世界のすべての人々(神のかたどりとして命を与えられた)の可能性を感じざるを得ません。今、時のしるしは、わたしたち一人一人に、自分たちにとって何が一番大切なものであるのか、かけがえのないものであるのかを実感として思い知らせてくれています。それを力強く支え、肯定してくれているのが復活の祝いの意義なのです。
 
 イエスの出来事のうちに示された慈愛深い父なる神の救いの意志を信ずる者はだれでも赦しが受けられ救われるとペトロは証ししています。また、パウロはキリストがわたしたちの過ぎ越しの子羊として屠られたから、わたしたちも古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうと教えています。人間の生き死にとそのあとのいのちはこの地上の世界の歴史における様々の人間の欲望を超えたところからくるようです。言い方を変えれば、人間がその命と存在の根源である父なる神の意志に従って、お互いに助け合い、問題を暴力や力によって解決するのではなく、話し合いと相互の尊重によって解決し、人類の平和的共存を、その叡知を振り絞って目指すよう絶えず努力することの中にあるようです。これらのことの中に、大きな希望を見出している次第です。
 
今日の福音の中心テーマは、この「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」という聖書の言葉を、シモン・ペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子は理解していなかったというところにあります。残念ながら、現代までのキリスト教といわゆるキリスト教徒自体が、その歴史の中で示しているように、二人の弟子と同じように、イエスの中に示された神の救いの意志ではなく、祝福と呪いという古い契約に従って、人間の力による救いの達成(自分たちだけがよければという否定的な意味での自己実現)を追求してきたことが、今日の様々な問題を産み出す一因ともなっているような点も見られます。しかし、イエスが教えかつ生ききった命と死と復活は、それらの過ちを超えて、赦しと和解という慈愛深い父なる神の救いの意志を信ずる者すべてに開かれているのです。それが、人間のすべての不条理な死への応えであると信じます。
 
 アーメン。